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『M 愛すべき人がいて』雑記①
2020年7月4日の放送で最終回を迎えたドラマ、『M 愛すべき人がいて』(以下『M』)についての雑感を書いていきたいと思う。
① 作品が話題化した要因と、社会的背景についての考察。
② 二九歳男性がのめりこんだ理由。
③ 作品を通しての感想と、今後のエンタメのありかたについて。
さて早速、①話題化の要因と社会的背景について述べていきたい。
話題化の要因については大きく二つ。田中みな実の怪演を始めとした過剰演出と伊集院光たちの副音声である。詳しくは後述するが、この二点は相関関係にあり、「過剰演出=ボケ」「副音声=ツッコミ」という関係にあると言える。この二つを番組オフィシャルで視聴者に示してくれたことはつまり、視聴者たちに「どんどんツッコんでくれても大丈夫ですよ」という安心感を与えてくれたことに他ならない。
ちなみにテレビ番組における「副音声」の演出は昨今珍しいものではない。紅白歌合戦やテラスハウスにも見られる演出である。みんなで一緒にテレビをみたい、というニーズは意外と潜在的に長らく存在しているものなのだろう。テレビがお茶の間(家族と)で見られるものでなくなってから久しく、またリアルタイムツイートがテレビドラマの人気の指標となってから数年は経つ。
先に「安心感」と述べた理由として、『M』放送期間中にテラスハウスの出演者の自殺騒動があったことについて触れておきたい。槙田雄司こと、芸人・マキタスポーツがその著書『一億総ツッコミ時代』のなかで「ツッコミ高ボケ低」を提唱してから八年が経つ。
テラスハウスの一件は、そんな「ツッコミ高ボケ低」な気圧配置の時代において、一部の視聴者のリテラシーの低さが生んだ悲劇なのだろう。視聴者のリテラシーの低さとは、番組自体が虚実の入り混じったTVショーととらえる半信半疑の精神性が持てない状態のことである。何にでも白黒つけたがり、半信半疑なグレーなものを楽しむ余裕が持てない、そういう人たちがなんと多いことか。プロレス、大相撲、UFO、心霊、川口博探検隊、ノストラダムスの大予言、都市伝説、陰謀論・・・枚挙にいとまがないが、グレーなエンタメを楽しむ余裕がある時代が確かに、あった。。
閑話休題
そんなギスギスした「ツッコミ高ボケ低」の時代に辟易し、「ツッコミ」という行為の恐ろしさを感じていた視聴者たちにとって、『M』の副音声は視聴者たちの「ツッコミ」を単なる誹謗中傷、演者をバカにする行為ではなく、ドラマを愛でる行為へと自然と促してくれた。このドラマはこういう風に楽しんでくださいね、というガイドライン(=『M』を「ボケ」とした漫才とはどうあるべきか)を示されることによって視聴者たちは、「こんな感じでツッコんで楽しめばいいんだ!」と安心して「ツッコミ」を入れることができるようになった。(少なくとも筆者自身は安心した視聴者のひとりだ)そして同時に演者・スタッフもその漫才を楽しんでいることも伝わってきて、なお安心した。
全ては浜崎あゆみとMAX松浦の懐の深さのおかげです。
本当にありがとうございます。
演者たち演技=愛すべき「ボケ」についても触れておきたい。もちろん、特筆すべきは田中みな実の怪演ぶりだ。また安斉かれんの演技力も話題となった。三浦翔平の得も言われぬキムタク感がドラマ全体を引き締めてくれたと思う。そして恐ろしく記号化されたサブキャラクターたちも『M』の「ボケ」の一部だ。記号化されたサブキャラたちは名優たちで固められている。高橋克典、市毛良枝、モト冬樹、大鶴義丹。ひとりひとりの活躍に触れたくもあるが、、割愛。
『M』の「ボケ」は演者だけでなく、ロケ地、セット、衣装、演出などドラマの構成要素の全てにちりばめられている。まさに「ボケ」のオンパレード。ただ観ているだけではくどすぎる。意図的に「ボケ」まくっている。視聴者たちの「ツッコミ」をもってしてこのドラマは完成するのだ。
つまり、「ツッコミ高ボケ低」の時代の視聴者たちは、華麗なる大ボケとなってくれた本作、副音声、アユとマサの懐の深さのおかげできれいな形の漫才を演じることができたのだ。
とりあえずここまで。②、③についてはまた次回。
↓ ②、投稿しました。