思い出の肖像
認知症の場合、急にすべてが分からなくなるわけではない。一緒に暮らしていると、まるで空の天気のようだ。晴れたり、曇ったり、時には嵐のような風が吹く。そして、また穏やかな小春日和のような時が来る。
ただ、これが一日の中でくるくると目まぐるしく起こるのも、特徴の一つかもしれない。
ひいおじいちゃんも、認知症が進んでいく段階で、自分自身でも変化に気づいていたようだ。
ある日、母がひいおじいちゃんに呼ばれた。
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実は、母は、ひいおじいちゃんの孫でもあり、養女でもあった。
家を継ぐはずだったひいおじいちゃんの長男が戦死してしまい、長女はすでに結婚していて、娘が二人いた。その娘の一人が私の母だった。
東京に家族と共に住んでいた母は、小学校の運動会の前の日、ワクワクしながら次の日の準備を済ませた。翌日、学校に行くはずが、親に手を引かれ、列車に乗り、田舎の祖父母の家に連れてこられ、「今日から、お前はここの家の娘になるんだよ。」と告げられた。その日から、家族と離れ、独り田舎の家で暮らすことになったのだ。
母は、数日は泣き暮らしたが、徐々に新しい学校や、田舎の暮らしにも慣れていったようだ。そこには、新しい友達と優しい祖父母がいたからだと、のちに私に話してくれたことがある。
その後、幼い子を親元から離して暮らさせることへ親戚の反対にあい、3年間一緒に暮らした祖父母の家から、東京の家に帰された。その時、小学校の高学年になっていた母は、祖父母のことが恋しくて病気になり、学校を休学して寝たきりの生活を送ったという。
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母は、ひいおじいちゃんに呼ばれ、仏間に通された。
きっちりと着物を着て、仏壇の前に正座しているひいおじいちゃんと、少し離れた場所で静かに座っているひいおばあちゃん。
ひいおじいちゃんとは、母にこう告げた。
「りう子、お前ももう気が付いているかもしれないが、わしは最近、物忘れがひどくなってきている。
残念だが、もう少ししたら、色々な事が判断できなくなると思う。
その前に、お前にお願いしたいことがある。」
と言って、通帳や財産の管理、家の資産のことを母に託したという。
母は、突然のことに戸惑い、
「でも、財産のことは、おばあちゃんがいるのだから、私よりおばあちゃんに託した方がいいのじゃない?」
というと、
「この人は、外から来た人だ。そして、ばあさんも、お前に一任することを望んどる。」
というと、それまで一言も口を出さず、少し離れたところに座っていたひいおばあちゃんが、口を開いた。
「私は、後妻でこの家に来た人間だから、この家のことは、りう子ちゃん、あなたにお願いしたいと私も思っています。」と。。。
そして、
「この家のこと。これからのこと。そして、ばあさんのことを、よろしく頼む。」
と、深々と母に頭を下げたという。
母は、その時のことを振り返り、私に話してくれる時、いつも、
「私は、覚悟の決め方、自分の最後の身の振り方など、すごいものをあのふたりに見せてもらった。 私も、あんな風に自分の覚悟を決めることができるのかしら。」と自分に言い聞かせるように言っていた。
そして、気になっていたことを母に託したひいおじいちゃんは、認知症の進行が進んでいった。今まで、一家の大黒柱として、責任をもって生きてきた彼は、母にバトンを託したことで少しほっとしたのかもしれない。
その後、真冬に麦わら帽子をかぶり畑を徘徊したり、大量の庭木や錦鯉を購入したり、杖を振り回し抵抗し、それまでの寡黙で威厳のある姿とは違うひいおじいちゃんになったけど、それまであまり人に見せたことのないような優しく柔らかな笑顔を見せるようになっていった。
ひいおじいちゃんの死後、私は、優しく微笑むひいおじいちゃんの笑顔と姿を思い出す。でも、母にとっては、あの時の凛々しく、きっちりと着物に身を包み、覚悟を決めた姿が、母の中の肖像となっているのではないかと、後々と思い出話をするたびにそう感じた。