畑に横たわる大きな犬の正体
私は、小学校から帰るといつも、ひいおじいちゃんとひいおばあちゃんの家の敷地を通って、お店を営んでいる母のいる場所へ戻る。
家族で商店を営んでいた我が家。幼稚園に通うまで、私は毎日ひいおじいちゃんの家で過ごし、幼稚園に通い始めてからも、体の弱かった私は、ほとんどひいおじいちゃんとひいおばあちゃんの家で過ごしていた。
火鉢にはいつも鉄瓶にお湯が沸き、シュンシュンと心地よいリズムを刻む。「ボーン ボーン」と時を知らせる柱時計。かまどで炊くご飯をおひつに入れ、かつお節を削り、いつも美味しいお味噌汁の香りが漂う。その家は、すべてがゆったりと丁寧に時が流れていた。
どんなわがままを言っても許された。時には、虫の居所が悪い私に、「疳の虫」を取り除くといって、墨をすり、手のひらに『虫 虫 虫』と3つ書き、その上に格子を書いて、黒く塗りつぶす。そして、塩水で手を洗う。
すると、
「ほ~ぉら。見てごらん。指の先から、白い煙のような細い虫が出てきたのが見えるかい。」
そんな頃には、白い虫が出てきたのが見えるような気がして、そちらに気を取られ、すっかり癇癪もおさまっている。何度かそんなことがあるうちに、幼心に自分で抑えきれない衝動に駆られると、ひいおじいちゃんの所へ硯箱を持っていくようになった。大人になった今、私にあまり怒りの感情がないのは、あの時に疳の虫を抜かれすぎたのではないか、と時々思う。
厳格で無口だけど優しいひいおじいちゃんと、いつも優しく穏やかなひいおばあちゃんのいるその空間は、私にとってとても居心地のよい場所だった。
小学1年生になり、少し学校に慣れてはきたものの、私は小学校より、居心地の良い二人のいる場所の方が好きだった。
「なんでノンちゃん、学校に行かなくちゃいけないの?」
(注:私は幼少期、自分のことをノンちゃんというあだ名で呼んでいた)
学校帰りのその日も、いつものように縁側からひいおじいちゃんとひいおばあちゃんの家を覗き込み、二人がいなかったので、少し寂しさを抱えながら、畑を通って母のいるお店へとノロノロと歩いていた。
敷地内にある畑の一角を曲がると、畑の隅に茶色くて見たことのない大きな犬が横たわっているのが、目に入った。
私は、小さな頃から犬が好きで、近所のほとんどの犬たちとは顔見知りだった。昔は放し飼いも多かったので、私の家の庭へ遊びに来る犬も多かったのだ。
私は、犬を怖いと思ったことはない。
でも私は、その時、初めてその茶色い大きな犬に恐怖を感じた。
「怖い… あの犬が目が覚めて、私に気づかないうちに、早く家にもどらなくちゃ。」
私は、遠くに見える大きな犬に気づかれないように忍び足で、息を殺しながら歩みを早めた。
家に戻り、しばらくすると、ひいおばあちゃんがいつになく慌てた様子で飛び込んできた。
「お、、お父さんがいなくっちゃたんだよ」
ひいおじいちゃんが、しばらく前から姿が見えず、心配になったひいおばあちゃんが近所を探したものの、見つからないため、一緒に探してほしいと走ってきたのだ。
祖母にお店を任せ、すぐに母と祖父は家を飛び出した。私も後を追いかけた。敷地から外へ出ようとする私に、「うま美は、外に出ちゃだめだからね」と、母はいつになくきつい口調で私に言った。
国道の辺りや、線路の向こうまでみんなで探した。
家にいったん戻ってきた祖父が、「今日はお父さん、どんな服装だった?」とひいおばあちゃんにたずねた。
「今日は、茶色のアンサンブルの着物を着ていたわ。」
ひいおばあちゃんがそういうのを聞いた途端、なにか胸騒ぎがし、私はもう一度家を飛び出した。
私は、数十分前に、忍び足で息を殺しそっと歩いた場所の向こう側へ走った。怖くて大きな茶色い犬がいる場所へ。
リンゴ畑の向こう側。そこには、大きな茶色の犬ではなく、ひいおじいちゃんが倒れていた。声をかけても反応はない。
私は、急いで家族に知らせた。
「ノンちゃん、えらかったねぇ。」
みんなが、口々に私を誉め、頭を撫でた。
でも私は、もっと前から、あの場所にひいおじいちゃんが倒れていたこと、そして、私が怖くて近づけなかったため、結果的に大好きなひいおじいちゃんを独り置き去りにしてしまったということを、みんなに言えなかった。
「ごめんね。ひいおじいちゃん。。。」私は、ひとりで泣いた。
その日を境に、ひいおじいちゃんの徘徊は頻繁になり、認知症が進んでいった。
それが、家族それぞれの介護生活の幕開けだった。
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