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神田伯山さんの講談はVR映画を超える没入感だった!

 念願かなって、神田伯山さんの講談をはじめて生で聞くことができた。

 伯山さんのことは、ラジオで知った。TBSラジオの『問わず語りの神田伯山』だ。最初は、ボヤキとも愚痴ともつかない「大人の本音」が面白くて聞いていた。

 そこから、ある日ふと「講談って何だっけ?」と思った。頭の中で落語と区別がついていない。そこで、YouTubeで伯山さんの講談の動画を探した。

 その時の感動というか、一種の驚きは、言葉にしにくい。面白い。とにかく面白い。映像より、よほど生き生きと絵が浮かぶ。わくわくする。引き込まれる。こういう感覚は初めてだった。

 当然思った。講談を聞きたい!というか、伯山さんを生で聞きたい!

 だが、とにかくチケットが取れなかった。やはり聞いていたとおり「講談界の風雲児」「日本で今一番チケットが取れない講談師」「明治以来の講談ブームを引き起こした立役者」なのだ。

 その間、ひたすらYouTubeを見まくった。神田伯山さんの公式YouTube『伯山ティービィー』に過去の公演が多数アップされているのはありがたかった。日々、何気なく流すBGMもすべて講談になった。

 そうしてついに先月、初めてチケットが当たったのだった。『伯山PLUS』という、飯田橋で行われる月例会で、伯山さんと月替わりのゲスト1人が高座に上がる。その日のゲストは宝井梅湯さん。

 18時半開演なのに1時間近く早く着いてしまった。全席指定なのに、自分でも笑える。どこかでお茶でも飲もうかと思ったけれど、意味なく入場を待つ列に並んでしまう(といっても、並んでいた人たちも席は確保されているはずなので、同じそわそわ感だったのかもしれない)。

 幕が開くなり、伯山さんがYouTubeで見た通りの、ちょっと猫背な感じで出てくるだけで、心の中でアワアワする。

 当日のプログラムは『鼓ヶ滝』(伯山さん)、『キリストの墓」(梅湯さん)、「仲入り」という休憩をはさんで『中村仲蔵』(伯山さん)。

 『鼓ヶ滝』は、西行法師が鼓ヶ滝を訪れて詠んだ句を、一夜の宿を提供した家族に添削されるのだが、それがじつは和歌三神で、西行法師は自分の慢心を知るというお話。

 『キリストの墓』は、創作講談で、日本にキリストがやってきたというこじつけ話で村おこしを図ろうとする人たちの顛末記(実際に「キリストの墓」は青森県にある)。

 そして『中村仲蔵』は、「血のない役者」つまり大役者の血筋でもない中村仲蔵が、周囲に妬まれながらも自らの工夫で実力を示し、出世していくさまを描いた人情もの。

 あたりまえなのだけれど、やっぱり生で見るのは違う。究極的には、ひとりの人間が話すだけの芸。衣装があるわけでもない。音楽がつくわけでもない。声のほかに聞こえるのは、「張扇」という扇で釈台を叩く音だけ。すわったままなので動きといっても、手を動かすか、上半身が揺れるくらい。

 それなのに、頭の中で情景がありありと浮かび上がり、見えない色が見え、聞こえないはずの音まで聞こえる。大勢に向かって読んでいるはずなのに、自分ひとりに向けられているような気がする没入感。

 これはVR映画の比ではない。

 頭の中だか目の前だかに自分だけの宇宙が生まれて、そこで仲蔵があがいている。仲蔵の気持ちが直に伝わる。こんなに悔しがっている人を、こんなに必死になっている人を見たことがあっただろうか。一緒に悔しがれる人がいただろうか。言葉、呼吸のひとつひとつが、熱をもって身体の奥に染み入る。中村仲蔵が自分の芝居の工夫が観客のひとりに伝わっていたと知って「ひとりだけでもわかってくれたならいい」と心の支えを見出すこところで、もう涙が止まらなくなる。

 終わった後は放心状態。なんだか取り憑かれたような感じになっていて、家に入るなりへなへなとすわりこんでしまった。

 それ以来、機会があればチケットを申し込んでいるが、相変わらずハズレてばかりである。あれは夢だったのだろうか。「推し活」なるものを、この年になって初めて味わっている。


 ちなみに『中村仲蔵』は、私がYouTubeで初めて聴いた伯山さんの講談でした。数ある持ちネタの中でもご自身もお好きで、よくかけていらっしゃるそうです。私としては、仲入り後に伯山さんが語り始めたところで「あっ!これは!!!」 YouTubeで初めて聴いた講談が生でも初だったことに心臓を撃ち抜かれた気分になった……というのは、ただのファン心理ですが、YouTubeで最初に聴いた時点で惹かれていなかったら、ここまでハマらなかったと思います。ぜひぜひ、お聴きください〜!


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