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エッセイストに憧れる~『エッセイストのように生きる』2月後半の読書記録

いつも更新を楽しみにしている方の日記に、気になる本の感想があがっていました。

はころく。さんの日記。
「エッセイストって名乗ってもいいですか?」というタイトルに、ぐっと心を掴まれたことと「ただひたすらに、誰かに読んでもらいたい。」という気持ちに、私も大きく頷きました。

紹介されていたのはこちらの本。松浦弥太郎さんの『エッセイストのように生きる』です。
実は私、この方の著書を読むのは初めてでした。

「エッセイストという生き方」とは、なにかになるための生き方ではなく、自分はどんな人間になりたいのかを考える生き方ということだという。

気になった言葉をピックアップします。

エッセイとは「秘密の告白」である。
まだ多くの人が見つけていない「秘密」をさぐり、気づき、見つけ、言葉にしたものが僕が考えるエッセイなのです。
(中略)
エッセイにおける「秘密」とは、自分が発見した、ものやことに隠されている本質。
ほかの人から借りた感性や意見ではなく、自分の内面から生まれた自分の言葉です。

『エッセイストのように生きる』27頁より引用

秘密には大きく、「自分自身の秘密(内側の秘密)」と「自分が見つけた秘密(外側の秘密)」があります。
(中略)
これからエッセイを書きはじめるというみなさんには、後者の「自分が見つけた秘密」から書くことをおすすめします。
自分のことを書くほうがかんたんだと思われるかもしれません。
自分の内面や過去を掘り下げた「秘密」を冷静にエッセイに書くのはとてもむずかしいことです。なれないうちは感情的になってしまったり、自分を傷つけたりすることにもなりかねません。

『エッセイストのように生きる』183頁より引用

『なれないうちは感情的になってしまったり、自分を傷つけたりすることにもなりかねません。』

…身に覚えがありすぎて、どきりとします。

私が通っていた高校では、とにかく「書かせる」課題が多く(どこの学校でもそうかもしれませんが…)国語の授業では短歌の鑑賞文を書き、評論文を書き、夏季課題では読書感想文、さらに大学入試のための小論文など、結構な量を書かされてきました。
もちろん提出しないわけにはいかないので、どんなに思いつかなくても、どんなに拙くても、原稿用紙のマス目をなんとか埋めて提出していました。

提出した作品の中から特に優秀なものを集めて、国語科の先生方が冊子にし、年度末には全生徒にその作品集が配られました。

私は、高校3年間で一度も掲載されることがありませんでした。

優秀な友人は、短歌の鑑賞文も読書感想文も高校時代の思い出も掲載されていて、素直にうらやましいなぁ、文才があっていいなぁ、と思ったことを覚えています。

なるべく多くの生徒の作品をまんべんなく掲載する、という方針ではなく、「良い作品は同じ作者でも何作だって載せる、良くない作品は要らん。」という、先生方の容赦ない忖度の無さに、現実を突きつけられたような気がしました。まぁ私成績そんな良くなかったのでね。

でも、今となってはわかります。
高校時代の私は、いま以上にセンシティブだったし、気持ちも安定していなかったし、たぶん、自分を傷つける文章だったり、自分かわいそう、みたいな文章を書いていたりしたんだろうなぁ~と思います。(確かめようがないのだけれど。)そりゃ掲載されないよ、文章って読み手あってのものだからさ…。

もう20年くらい前のことですが、たぶんこの経験が「文章をもっと読まれたい」と思った原点なのかもしれません。恥ずかしながら、本当に、本当~に読まれなかったので!

エッセイを書きたい!と思って、このnoteを始めたり、公募にチャレンジしたりしてきました。でも、なかなか自分の思考のくせは抜けませんね。「この文章は自分を、そして他人も傷つけていないだろうか?」と思いながら推敲することは、結構、あります。

最後になってしまいましたが、はころく。様、すてきな日記をありがとうございました!
おかげで、良い本に出会えました。勝手に記事を引用してしまってすみません。もし不都合ありましたら引用部分を削除しますので、お知らせくださいますと幸いです。(今後も日記楽しみにしてます!)

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