【思い出し旅行記】47分の…④思い出せない岐阜編
旅の記録、第3弾、岐阜編です。
相変わらず写真がないので、みんフォト様よりお借りしています。
これまた懲りずに青春18きっぷで米原まで行き、そこからJR東海道本線大垣へと向かいました。
米原から大垣へ抜けるとき、いつも「まさに今、西から東へ移動した!」という気持ちになります。これは途中で関ヶ原駅を通過することに起因しているからだと思っていて、学校教育でたたき込まれた「天下分け目の戦い」というキラーフレーズが頭の中でよぎるために起きる現象だと思います。
(そして帰りに逆方面、大垣から米原に向かうときも律儀に「東から西へ移動した!」と思ってしまいます。根深い。)
大垣駅で下りました。
そのときも夏でした。夏に旅しがちなのは荷物が少なくて済むからですかね。半袖と着替えと時刻表をバックパックにぶち込めば、あとは多分なんとかなる。
大垣駅近くの金蝶園という和菓子やさんで、水饅頭を買いました。
すぐに涼を求めてしまって。暑かったなぁ。その場でいただきました。大垣駅は思っていたより、ひっそりしていました。
そのあと大垣城を見に歩いて出かけました。ここまで来たので見ておこうかなぁ程度の気持ちだったので何の記憶もありゃしませんが、大垣城まで向かう町の中が、しん、と静まりかえっていて、商店街のシャッターが降ろしてある店が多かったことを覚えています。
旅した日は日曜日だったのか、それとも観光客は私だけだったのか?大垣城には料金を支払って入城しました。お手頃価格で殿様気分になれました。
大垣城を見たあと、松尾芭蕉の銅像を見に行きました。大垣は「奥の細道」のむすびの地(旅の終点)であることを一応知っていたので、とりあえず見にいっとこか、くらいの軽い感じで出かけました。芭蕉の銅像をみて「蛤の二見に別れ行く秋ぞ」の句碑を見つけて、おお!となりました。満足しました。
大垣駅に戻り、JRで岐阜駅へ向かいました。
岐阜駅で急ぎ乗り換えをし、目的の電車にダッシュでとび乗りました。
高山方面に向かう電車だったと思います。
荒ぶる息を車内で整えながら時刻表と路線図を確認していると、小学生くらいの女の子に話しかけられました。たどたどしい日本語でした。おそらくですがハーフなのではないかと思いました。彼女はひとりでどこかへ行きたいようでした。私が「え?」という顔をすると、もう一度「コノデンシャ、ンヌマ、イキマスカ」と言いました。
・・・いや、わかんないよ!てか私地元の人間じゃないし!見たらわかるやろ、ほら、手にJRのぶ厚い時刻表持ってるんよ!なんで私に聞いたん!そもそもこの電車が各駅停車なのか快速なのかもわからんまま乗ったよ!だから停まらない駅もあるかもよ、責任とれないよ・・・てかさ、ンヌマって何!?
と一瞬でいろんな言葉が私の脳内を駆け巡りましたが、助けを求めている小学生女子の前で「いや私わからんわ、ごめんなさい他の人に聞いて」とも言えず(言えたとしてもこの子の日本語能力を鑑みると伝わるかどうかも正直微妙だと思った)、え~っと・・・とたじろいでいると、近くに立っていた大学生くらいのお兄さんが「ウヌマ!行きますよ!」と助け船を出してくれたところで、電車のドアがプシューっと閉まり、かくしてンヌマ(ウヌマ)行きの電車が出発したのでした。
女の子は私には一瞥もくれず「アリガト」と言って中の方へ進んでいき、広い座席にひとりで座って外を眺めていました。
一気に疲れたので、私もお兄さんに目配せでお礼を伝えたあと、女の子からは離れた席に座りました。
時刻表をよくよく見ると、確かに「鵜沼駅」という駅で停車することは間違いありませんでした。正しい発音でウヌマと言われても、この字に結びつかなかっただろうな、多分ぱっと見つけられなかっただろうな・・・と思いました。
この時の旅について、不思議なことがあります。
この時私は、どこへ向かっていたのか、どこで下りてどこへ行ったのかさっぱり思い出せないのです。
飛騨高山へは確かに訪れたことがありますが、その時は夫と車で行ったので一人旅をしていたこの旅のことではありません。
郡上八幡へも郡上おどりのために一人で訪れたことがありますが、高速バスで向かいましたので、これも違います。
まさか大垣を目的地にしていたのでしょうか。それは無いと思います。松尾芭蕉目的で旅を続けられるような高尚で教養深い人間ではありませんし、もしそうだとしたら、大垣から米原へ向かってすぐ関西へ戻っているでしょう。岐阜駅を乗り換え駅として利用しているのも不思議です。私はどこへ行ったのでしょうか・・・そしてどこで宿泊したのでしょうか・・・。
少なくとも、その目的地が「鵜沼」ではないことだけは間違いがなく、記憶が残らない旅として一番記憶に残っている出来事です。
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