
障がい者と勝手に海外へ行く活動
今ではもうあり得ないのかもしれませんし、
逆に珍しくもないのかもしれません。
車いすで生活をしている人と友達になったので、
「行ったことない?なら行こう!海外!」
みたいなノリで10年ほど活動を続けました。
結婚を機に時間がなくなって止めてしまいました。
介護だの福祉だのとお堅い枠組みはさておき、
サークル仲間のような感じで、
とにかく旅行へ行きました。
活動の名称は、
レッツボランティアを省略して<レボラ>。
危険上等でどこでも行こう!とばかりに
まだまだバリアフリーが整っていない国にも
10人くらいでぞろぞろ旅行しました。
台湾では
車いすごとバスのエンジンルームに詰め込まれました。
飛行機を遅らせてしまったりすることも数回ありました。
韓国へ行くときは、
パスポートを忘れてきた障がい者を
空港からそのまま1人で自宅まで帰しました。
とにかく
周りの人よりも当事者本人の意見が一番重要という、
当事者主権の思いがあったからです。
今では、当たり前でも、ちょっとさかのぼった
1980年代、障害を持った人々は、
「隠されるべき人々」でした。
僕が学生時代、「青い芝の会」という
過激な障害者運動の系列を引いた
障害者解放研究会というサークルが
大学内にありました。
そこでは、
「障害者が自立して生活する」という
<非常識>な活動を強行していました。
障害者の人達が、アパートを借りて
生活をする。それが、異端視されていました。
車いすを押して一緒に買い物をする。
一緒に電車に乗って映画を観に行く。
街中を散歩に行く。
こういうことがどれだけ好奇の目にさらされ、
常に物理的な苦労を伴ってきたことでしょう。
僕は好奇心でやっていましたが、
他のサークルのメンバーは
持ち前の信じがたい優しさと
社会を変えよう、という意思で
やっていたように思います。
今から思い返すと懐かしい時間です。
現行の福祉政策を批判する人はいますが
さまざまな問題を抱えながらも、
あのころ、こんな時代が来るとは、
思ってもいませんでした。
レボラで一緒に海外へ行った
小阪さんや森田さんは、もう
この世にはいません。
伊藤くんともすっかりご無沙汰です。
彼らの車いすを押していた仲間も、
もう連絡が付かない人が多いです。
でも、これでいいのかもしれません。
なんとなく、役割を果たした感があります。
今、小阪さんのエピソードを思い出しました。
小阪さんは、あの当時最年長のおじいちゃんでした。
独り生活でしたが、いつもニコニコしていました。
パスポートを忘れてしまって、僕が代表者として
「じゃあ、独りで帰るしかないですね」
と言い放った(しかなかった)時にも
「わかった」といって
ニコニコ手を振りながら、
車いすで関空を後にしました。
あれからタクシーで京都まで帰るのは、
小阪さんにとっては
とても大きな出費でもあったでしょう。
みんなで北京に行ったときの記録を
ビデオに撮ったやつを
朝山さんというメンバーが
編集して、ビデオにしてくれました。
小阪さんは、それをニコニコ買っていました。
後から聞いた話では、
小阪さんはそれを観るために、
高いビデオデッキを買い、
そして毎日のように観ていたそうです。
一度で良いから、一緒に観るべきでした。
小阪さんは、どういう人生を送ってきたのか
僕は聞くこともありませんでしたから。
以下はNPO法人日曜大学で発表したものです。
口頭と写真発表だったので分量は少ないです。