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つねよし百貨店とは

京都府京丹後市、約400人が暮らす山間の小さな集落にある日本一小さな百貨店。
27年前に地元の有志33人が出資して、常吉村営百貨店を設立。
2012年に代表の大木満和さんの体調問題から15年続いた村営百貨店の閉店を決意。
その後を継ぎ、つねよし百貨店として再開し現在に至る。

常吉村営百貨店の成り立ちは、もともと集落に農協の常吉支所があり、そこが地域の拠点。
人が集まり、ちょっとした買い物をしたり、情報交換ができた。
それが97年、経営合理化から常吉支所が廃止されることになり、地域の衰退を危惧した住民有志が、
「自分たちの地域のことは自分たちで」と立ち上がり、共同で立ち上げたのが村営百貨店。

地域の人にとって、「ここに来ればなんでもある」ことから百貨店と命名。
食品から日用雑貨など暮らしに必要なものがなんでも揃う。子供からお年寄りまで、ここにくれば誰かに会える。農家さんは毎朝百貨店で休憩しておしゃべりしてから農作業にでかける。地元の農産物を持ってきたら百貨店で販売してお年寄りさんのおこずかいになり、生きがいになる。など、ただのお店でなく、地域の拠点として様々な役割を果たしてきた。

つねよし百貨店は、そんな常吉村営百貨店の想いを継いできたお店。

そもそも百貨店は共同売店ではありません。というと話は終わるのですが、、、
ルーツも違うし、経営形態も違うし、共同の理念も違うかもしれない。
それでも、共同売店と百貨店は似ていて、通じる部分がたくさんある。

共同売店との出会いは、共同売店ファンクラブの真喜志さんがきっかけ。
真喜志さんの紹介で、8年前に初めて沖縄の共同売店を訪れ、衝撃を受けた。
9か所ぐらい回って、百貨店が独自にやってきたと思っていたことが、沖縄では村々で当たり前のようにずっと引き継がれてきていた。
沖縄と京丹後でなんの接点もなく、こんなに離れているのに、めちゃくちゃ共感できたり、通じるところが多かった。

それで、先日のd-SCHOOLわかりやすい共同売店で、コバヤシさんとナガオカケンメイさんのお話を聞いて、また8年前に感じたのと同じように、色々な話にめちゃくちゃ共感できて、熱くなれました。

コバヤシさんのお話でもあったと思うのですが、共同売店と百貨店、違うのだけど、「小さな村で、車に乗れないお年寄りでも、歩いて買い物に行ける場所があるといいな」という原点が一緒なのでは、と感じました。

先日のトークショーでそうそう!と思ったのが、
1人暮らしのおじいちゃん家に配達行ったときにペットボトルの蓋緩めてあげるとか、
冷蔵庫の横に百貨店の電話番号貼ってあるとか、
レジ前にイスがあってお客さんとずっとおしゃべりしてるとか、
地元のお客さん1人1人に合わせた最小限の品揃えで、究極の1to1マーケティングだとか、
配達行くときや定休日で店にいなくても、お客さんが勝手に留守番してくれるとか、
不思議なぐらい共通する話がでてくる。

新たに気づかされた話もあった。そして話したいことも。

共同売店的な地域の百貨店を運営する当事者として、話したいことや実際の話はたくさんある。

共同売店のお話を聞き、コバヤシさんとお話して、またラジオでお話させてもらって、
それで百貨店をやっていて伝えたいことはなんだろう?
わざわざ発信して伝えたいことってあるんだろうか?
とずっと考えてきました。

自分にとって、百貨店は毎日淡々と流れる日常で、日常の中で色んなことがあり、それが続いている。
当たり前の暮らしがそこにあって、実は意外と社会の変化の中でその当たり前の暮らしが見失われてしまって気づかれなくなっているのでは、とか。

それは田舎の昔ながらの懐かしい暮らしということじゃなくて、いつのまにか当たり前が当たり前でなくなってしまっている未来に対して、当たり前を取り戻すヒントが、百貨店に、あるいは共同売店にあるような気がしているから。

ここに来る前は、夫婦で東京にいて、妻は金融業界、私はIT業界にいました。
IT業界は、特に今の暮らしと真逆?の世界で、休みも少なく毎日缶コーヒー飲んで遅くまで働き、いかにレバレッジをあげて稼ぐかを日々追い求める業界でした。

といって、その世界がイヤで、田舎暮らしがしたくてこちらに来た訳でもなくて、たまたまリーマンショックで会社を清算したタイミングで、ITの仕事なら別に東京にこだわる必要もないので、関西に帰ろうかなというときに、たまたま地域おこしのプログラムで半年間、京都に住まない?というお誘いがあり、京都もいいなと思って来たのがきっかけ。(でも実際はぜんぜん京都じゃなかったのですが。)

その地域おこしのプログラムは、「地域と都市人材をつないで活性化に繋げる」というものだったのですが、その受入先が今の百貨店でした。

それまで東京に住み、六本木や渋谷のビルで働いていて、おじいちゃん、おばあちゃんは見ることもなかったのが、百貨店にいるとおじいちゃん、おばあちゃんしかいない。

そんな感じで都会の生活から180度変り、田舎の地域での暮らしが始まった。
地域おこしのプログラムでは、地域の埋もれたコンテンツをITを活用して発信するのがテーマでした。

そもそもIT業界にいて、自分の中で持っていたテーマは「つなぐ」ということでした。
ネットワーク、特にインターネットを通じて、これまでつながることがなかった人やモノや情報がつながることで価値を生む新しい社会の実現、ということをライフワークとして考えていました。

それが、実際には田舎ではうまくいなかい。
半年でプロジェクト進めようとすると、まずプランをたてて、実行に移し、検証していく、みたいなプロセスでやろうとしたのですが、全然うまくいかない。「地域のコンテンツを発信」といっても、ブログとかインターネットとかはただの手段で、主役の地元の人がやる気になってもらわないといけない。
でも、そもそもなんで発信しないといけないとか必然性感じてないし、よそ者が来て、お膳立てしてくれて、とりあえずやってみるけど続かない。

で結局、最初の5か月ぐらいを棒に振って、ただただ地域の人と飲みに行ったり、百貨店や畑手伝ったりして、なんとなく身内として受け入れてもらうようになり、そうなって初めて、何かお願いしても、「あんたのいうことやったら、やったろ」という感じで説明しなくてもやってくれるようになって、プロジェクトも回りだしました。

そういう、時間をかけてまず信頼を築き、一旦信頼ができれば、あとはトントンと進む、みたいな仕事の進め方は、都市部でシステムやってたときとはまったく違って目からウロコでした。

それと、なにより自分のテーマだった「つなぐ」という概念が、「ネットワークを介して遠くの人をつなぐ」というのも面白いのだけど、地域の人が「百貨店という場で、リアルにつながる」日常もまた面白いと感じるようになってきたのです。

百貨店は、人と人をつなぐ場所として大きな役割を持っていました。

と、話が大きく横道に逸れてしまいましたが、都市部にいたときは、マンションに住み、家と会社を往復する生活が当たり前だと思っていたのが、京丹後に来て、こんな暮らしや働き方もあるのか、と新しい当たり前に気づいたのです。

お隣さんがどういう人かも知らない、食べる食材も安ければよくてどこから来てるかとか気にしない、付き合いは会社の人がほとんど。

そういう暮らしを経て、丹後に来て地域との関わりが濃密な暮らしに触れ、さらにつねよし百貨店で人と人がつながる現場で働くようになった。

地域の現場は小さいけれど、会社でのつながりとは違う多様性に富む。
お年寄りから小さな子供、農家のおっちゃん、おばちゃん、外国人、障害のある人、みんなが同じ地域というコミュニティの中で暮らしている。

そんなコミュニティの中心、ハブになっているのがつねよし百貨店であり、共同売店なんだろうと思う。

と、偉そうに書いてきたけれど、
・(昔はともかく、継業して12年経った)今のつねよし百貨店がその役割を果たせているだろうか?
という疑問と、
・共同売店や百貨店の果たすソーシャルな役割の継続性と経済性の両立の問題
も話さないといけないと思う。

つねよし百貨店として継業して12年が経つ。
継いだ直後は、「よそから来て、こんな儲からないし、大変な店継がなくていいよ。」という声も多かった。

前身の常吉村営百貨店の時も、開始直後の2年を除き、人口減少や競合環境の変化などから売上は右肩下がりとなり、後半は人件費を相殺してなんとかトントンの状態で続けてきた。それでも前代表の大木さんの地域の暮らしを守る想いだけで頑張ってきた。

なので、当時、百貨店を継ぐ決心をしたのは今思えば無謀だったのかもしれない。
確かに、私自身移住者でよそ者だし、地域のためにそこまで頑張る!という想いは強くなかったかもしれない。(もちろん、ずっと村営百貨店を手伝ってきて、百貨店がなくなったら困る人の顔が何人も浮かんだし、そんな人がいる限りまだ百貨店は役目を終えていないんじゃないかと感じていた。)

それでも百貨店を継いだのは、想いだけでなく、もう少し無駄を省き経営を見直せば、廃業しなくても儲かりはしないけど、損はしない程度に続けられるのでは?という考えもあったから。

村営百貨店の時代は、地域の人が困らないようなんでも揃えないといけないという想いから、大型冷蔵庫を置いて、肉、魚、惣菜など欠かさないようにしていたけど、人が減り、売れずに残ることも多く、ロスも多くなってきていた。なので、生ものは注文を受けて仕入れ、その日に配達する。大型冷蔵庫は処分(消防団に手伝ってもらって外に運び出し、解体して、スクラップ屋さんに引き取ってもらいました。)、蛍光灯をLEDに替え、商品も売れるものだけ最小限に絞って、基本、ロスが出ないように心がけました。

2012年8月に村営百貨店が閉店し、商品台や棚などの什器だけ残して空っぽになった店内から資本金0円でチャレンジつねよし百貨店実行委員会という準備組織の形をとり、11月1日に新生つねよし百貨店としてオープンしました。

オープンの日は、いつも百貨店を利用してくれる90過ぎたおじいちゃんが、リヤカーに炊飯器とお鍋積んで、豆ごはんと煮物差し入れで持ってきてくれたり、子供らが遊びにきてくれたり、地域の人みんなが入れ替わり立ち代わり百貨店に来てお祝いしてくれてうれしかったです。

(余計な話でついつい話が長くなってしまいます。。。)

12年前に百貨店を継いだとき、地域の人が百貨店を手伝ってくれ、歩いて買い物に来れるお年寄りは老人車を押して買い物に来てくれ、歩いて来れない家には配達し、地元の農家さんに野菜や加工品を出してもらい、子供達の遊び場になり、イベントもあったり、村の行事ごとには注文を受けて、細々ながらも、百貨店は地域に必要とされる存在でした。
(一番共同売店的だった時代?)

年月が過ぎ、村の人口は着実に減少を続け、百貨店のお得意さんや手伝ってくれていたメンバーも一人減り、二人減りが続き、百貨店を遊び場にしていた子供達も大きくなり、毎年のイベントもだんだんとなくなってきました。

それでも、まだ農家さんたちは毎朝百貨店で集会し、音楽やボードゲームのイベントなど地域コミュニティの拠点として人が集まる場所でした。

そして2020年。コロナの流行で人が集まる場所に行かなくなりました。
百貨店もコミュニティスペースは閉鎖状態で子供達も遊びに来なくなり、地元のイベントはすべて中止、
おばあちゃんたちは友達の家に寄っておしゃべりすることもできなくなりました。

百貨店として、注文を受けて配達は続けていたけれど、全体的に売上は半減し、配達先のお年寄りさんも元気がなくなりました。

長引くコロナ禍の中、売上は低迷したまま、塾の講師や学校のICT支援員などのバイトでしのぎつつ、
コミュニティスペースに本棚を作ってまちライブラリーを始めたり、集まらなくてもサードプレイスとして使ってもらえるような改装を徐々に加えていきました。

コロナの3年間で、それまで毎日のように注文してくれていたお客さんや手伝ってくれていた大切なメンバーが立て続けに亡くなったりで、喪失感から百貨店を続ける意味ってあるのかも悩みました。

コロナが徐々にあけていく中で、人も減り、イベントも自粛される状態で、売上もコミュニティの賑わいもコロナ前に戻る希望はまったく見えなかったのですが、昔のつながりから都市圏にお米を定期販売する取引が始まり、新たな売上の核となりました。

ただの米販売ではなく、地域の農業を守り、食の未来を守る意味をこめた取り組みで、「米つなぎプロジェクト」として、地域と都市圏の会社をつなぎ、また都市圏の保育園やこども園の給食に使ってもらったり、田植えや稲刈りを子供達に体験してもらったりという取り組みをしています。

食の未来を守りたい、というのも、つねよし百貨店を継業したときの想いの一つだったので、その点では米つなぎプロジェクトの取り組みは百貨店の役目のひとつを果たしてくれています。

一方で、地域の暮らしを守るお店、地域コミュニティの拠点としての百貨店の役目は、コロナ前に比べてかなり小さくなった気がします。

共同売店のお話を聞いて、頑張っている共同売店は10年前の百貨店に近い感じで、それに対して現在の百貨店は成熟ステージで、これから頑張ろうとしている世代にはそぐわないのでは、という迷いもありました。

組織的にも、村営の時代は地域の33人の出資者の共同運営(共同売店に一番近い?)から、百貨店の継続に取り組むチャレンジつねよし百貨店実行委員会の任意団体の運営に変り、コロナ禍で持続化給付金がもらえず、さらに組織をダウンサイジングして、現在は私の個人事業として運営しています。

最後にダラダラと長くなってしまいましたが、
地域の暮らしを守るお店としての機能、地域の人が集まれるコミュニティの場としての機能というソーシャルな役割は、百貨店としての原点であり、いまも百貨店を続けている理由です。
それでも、以前と比べるとその役割は小さくなり、組織の形態も変り、地域のお店としての売上だけでは百貨店は維持できていないと思います。

つねよし百貨店を始めるとき、戒めとして百貨店十訓を作ったのですが、8番目に「役目がある限り」を定めました。役目があるから続けるんであり、続けるのを目的にしないようにしよう、という戒めです。

百貨店を継いで12年、百貨店がなかったら生きていかれへん、と言っていたおばちゃんたちも随分いなくなり、百貨店を遊び場にしていた子供達も巣立っていき、まだ百貨店を頼りにしているお客さんはもちろんいるのだけれど、だいぶ役目は果たしてきたかなという感じです。
成熟期の百貨店のお話なので、ついつい感傷的になるのですが、、、

初めて丹後に来て、地域おこしの半年のプログラムを終了するとき、その報告会でよその地区の人に、
「どうせあんたらはよそから来て、面倒だけ残してすぐいなくなるんやろ。」と言われ、めちゃむかつきました。

でも、地元の人からしてみると、地域おこしだ、活性化だと都会からコンサルだの先生だのが来て、立派なアイデアだけくれて、あとは地元の人任せでいなくなる、を何度も繰り返し、辟易してたんだろうなとも思います。

そのときむかついたのをバネに、自分の中で一つゴールを持っていて、「つねよし百貨店は15年続ける」という目標です。前身の常吉村営百貨店が15年続いたので、同じ15年続ければ、「ほら、すぐいなくなった。」とは言われないだろうからです。

浮き沈みありつつも、気づけば10年も過ぎ、目標の15年も近くなってきました。

なのでとりあえず、15年やれれば自分的にはいつやめてもいいのです。

が、

今年に入り、百貨店にまた新たなゴールの予感が芽生えました。

5月から、みーちゃんという18歳の子が、学校の就業実習で週3日百貨店を手伝いにきてくれることになりました。
みーちゃんは、村営百貨店の元代表、大木さんのお孫さんなのです。

みーちゃんにとっても、百貨店は小さいころおじいちゃんに連れられて、買い物したり、遊びにきたりする場所でした。

大木さんから私が百貨店を継ぎ、そろそろ終えてもいいかなーと思った頃に、大木さんの血を引くみーちゃんが百貨店に来る、って不思議な運命を感じます。
大木さんからバトンを受け、次にみーちゃんにバトンをつなぐ。
それが私の役目だったんだろうか?

この先まだまだ百貨店がどうなっていくかはわからないですが、役目がある限り、続けていければなという思いです。

京都北部の山あいの小さな集落にただ1軒の小さな百貨店から田舎の日常を書いています。子供達に豊かな未来を残すためにサポートよろしくお願いします!