2人のおばあさん
こんにちは。ゆりりうすです。
前回の投稿は、大分気持ちが高ぶって可笑しな感じになってしまいました。
だから、ゆりりうすらしくはないんですけど、あの感情が乱れているのも私なので、それはそうとしてもう皆さんに見てもらおう、ということで特に削除することなく、このまま載せます。
で、今日は通常運転の楽しいゆりりうすです。
今回は「2人のおばあさん」です。
私には2人のおばあさんがいました。って当たり前ですね。どんな人にも必ず2人のおばあさんがいなければ、自分がいないんですよね。
そう、ゆりりうすにも面白いおばあさんが2人いました。
1人は父方のおばあさんで、私の小学2年生の時に亡くなりました。
もう1人は母方のおばあさんで、私が長男を生んで1年程で亡くなりました。
2人共、面白エピソードがいっぱいの人でした。
おじいさんは?と思う人もいるかも。でも、明治生まれのおじいさんってあまりしゃべることもなかったので、よく覚えているのは2人のおばあさん、いや、言い方をいつも通りにするなら、「おばあちゃん」がいたのです。
まず、お隣に住んでいた父方のおばあちゃんは、それはそれは知恵の塊みたいな人でした。明治生まれの人なので、とても気丈、それでいて、暖かみのある人でした。町内の婦人会の会長もしていて、大体誰かしらが相談に来ていました。
優しい人で、私の母とも上手くいっていたようです。母はこのおばあちゃんが大好きでした。母は、なかなか人に気を許す質ではないので、これは珍しいことです。
私には兄がいて、昔からとても優秀な人だったので、2人でいると何かと比べられることが多く、私はいつも「じゃない方」をやっていたのですが、このおばあちゃんは、とても人の良いところを見つけるのが上手な人だったので、「ゆりりうすは動物に優しいね。」とか「ゆりりうすは家の柱に登るのが上手だね。」とか誉めてくれるので、大好きでした。
ちょっと太っていて、いつも薄紫色の服を着ていることが多かったので、母の絵本に出てくる優しいおばあさんも大抵、薄紫色の服を着ています。
何をやっても、大いに誉めてくれるので、私はおばあちゃんの家の居間にいるのが、とても居心地が良かったのを覚えています。
私がおばあちゃんが知恵の塊というのは、例えば、おじいちゃんに「おい、カボチャの煮物に砂糖を入れるなよ。」とか言われると、「はいはい、分かっていますよ。」と言いながら、おじいちゃんの見ていない所で、一匙入れるのです。そして私に「内緒だよ、この方が美味しくなるから。」と言って優しく笑うのです。余計な波風は立てずに、でも、ちゃんと自分のやり易いやり方を通します。素敵でした。色々なことがこの調子なので、とっても頼りがいがあり、「なるほど、沢山の人が相談に来るのも分かるなあ。」と思っていました。
また、その相談しに来た人を必ず笑顔で帰すのも、おばあちゃん一流のやり方でした。人あしらいが上手で、それでいながら、その人が嫌な気持ちになることをしませんでした。大人になって分かったのは、それはずいぶん難しいことだと、高度な技術がいることを、おばあちゃんは易々とやっていました。
兄と私はちょくちょく遊びに行って、2人で手を出しながら、「おばあちゃん、焼き海苔ちょうだい!」と言うと、笑いながらオレンジ色の海苔の缶から一枚ずつくれるのも、恒例行事でした。そして、おばあちゃんに寄りかかりながらテレビを見る。至福の時でした。
面白い話も沢山持っていて、子供の私達に近所の誰かのお話をしてくれて、決まって最後に「もう笑っていいのやら、笑っちゃいけないのやら。」という言葉で締めます。落語家の父の原点かも知れませんね。
あと、詩人のようなこともいう人でした。「山椒の味は、まるで金の切り口のようだね。」と言い、詩を沢山読んだであろう母を、しきりに感心させていました。
実は、資産運用で、株もやっていたらしいです。私はまだ小さかったので、後で聞いた話ですが、兄は「私は目が悪いから新聞の数字を読んでおくれ。」と頼まれ、株式のページを声を出して読んでいたようです。そして、まあ小さく掛けていたからだと思いますが、お金を増やすのが上手だったとか。
本当に昔話に出てくる、良いおばあさんみたいな人ですが、戦争で8人いた子供のうち、5人を亡くしているので、悲しい体験もしています。あのおばあちゃんが、一時期半狂乱になったことがあると聞いて、戦争は本当に誰も幸せにしないと、つくづく思いました。
父の弟の叔父が生まれて、初めておばあちゃんは落ち着いた、と聞いています。だから、叔母も父も叔父も、やや甘めに育っております。悪いことではないです。3人共意地悪な人ではなかったですからね。もう叔父しか残っていませんが、みんな寅さんのようにとっても素直なところがある優しい人達です。
だからなのか、孫にも大甘でした。うふふ、ちょっとくすぐったいくらいです。
次に母方のおばあちゃんは、明治の女の人には珍しく、大卒、それも国立、おまけに主席、ととても優秀な人でした。パワフルで歌が大好きで、まあ似たような性格の母と合うわけがない。でもやっぱり面白い人だったので、孫達はみんなおばあちゃんが大好きでした。
もし、今だったら職業を持っていて、バリバリ活躍していたのではないかしら?でも時代が違うので、子供の教育に力を入れていて、まあ、教育ママのはしりです。母は、そこも辛かったみたい。
私達が一番おばあちゃんが好きな瞬間があって、孫達がおばあちゃんの家に泊まる時(嬉しかったな)、従兄弟と私達、兄妹が布団に入ると、おばあちゃんがみんな寝たのかを確認するのです。その時冬だと、「おばあちゃん、白菜やってー!」と言うと、おばあちゃんは孫1人1人に布団の上から「白菜ギュッギュッギュッ」と体を揉んで、「塩をパラパラパラ」と塩をかける真似をして、白菜の漬け物を作ってくれます。これが楽しくてね、また布団が暖まるんですよ。
夏バージョンは、孫達が寝る時暑がっていると、うちわを出して来て、やっぱり1人1人に「蒲焼きバタバタバタ」と、鰻屋さんがやるように、うちわであおいでくれます。本当に楽しかった。冬も夏も、それをされると、なぜか孫達はみんなグッスリと眠ることが出来ました。
後年、私も子供を生んでから「白菜」はよくやって、子供達もこれが大好きでした。
それから、このおばあちゃんは、孫でも、ちょっと大きい子供達と小さい子供達に差をつけるんですね。例えば、朝、紅茶を入れてもらう時も、兄と従兄弟のお兄ちゃんは大きいので、紅茶茶碗(プラスチックじゃない)の取ってが片方しかついていないカップを渡します。私と従兄弟の弟の方は、小さいので取ってが両側に一つずつの二つついているカップを渡されます。「お兄ちゃん達は大きいからこれで大丈夫ね?」なんて言われてると、下2人はすごく羨ましくて、早く大きくなりたいなあ、なんて思ったりしていました。
庭も広くて、私達は散々この庭で、気が済むまで遊びました。庭はちゃんと手入れされていて、いつも花壇に綺麗な花が咲いていました。折り鶴欄なんかも、吊るして育てていて、緑の指を持っていたのかも、ですね。
歌が大好きで、親戚が集まると、みんなで合唱が始まります。私はこれが大好きで、日本の歌を輪唱したり、外国語の歌を歌ったり、きっとこの体験が私の歌好きの根本だと思います。
結婚して、すぐに、旦那に不思議がられたのは、料理を作っている時に鼻歌を私は歌うんですが、それが「?」だったようで、「何で、料理を作りながら歌うの?」と聞かれ、逆に私が驚きました。「えっ、歌わないの?」「うん、聞いたことない。家の母親も歌ったことない。」と言い、双方驚いたというエピソードがあります。だって、料理の時、口が暇じゃないですか。鼻歌くらい歌いますよね?
こういう楽しいおばあちゃんがいました。私達はきっとその中のどの辺か分からないけど、血を継いでいて、みんな逞しく生活をしています。
後日談。笑ってください。
母は、よくこぼしていました。
曰く、「私は子供の頃、実家が大人には料理が1品多くつく家だったから、子供のじぶん1品少なく食べていて、大人になって、父と結婚したら、こっちの家は子供に1品多くつける家だったから、食べられなくて損をした。」
ゆりりうす、爆笑してしまいました。
実に母らしい感想です!