【嫌われる勇気】とは
「アドラー心理学」(個人心理学) と出会いました
私は、当時この本を通じて、「アドラー心理学」を知りました。
知ったのは数年前のことです。
正確には「個人心理学」なのですが、日本では創始者の名前とって「アドラー心理学」で知られています。
この「アドラー心理学」。
人々のすべての悩みは対人関係にある、と断言します。
うだつがあがらない
自分自身の他者からの評価が低いんじゃないか
なんだか運が悪いな
人から言われることが自分の思い通りじゃないことばかりだ
なぜ、周りの人々(家族を含む)は私を否定ばかりするのだろう
なんとなく、今生きてる事自体が息苦しい
これらの原因は対人関係にあります。
要するに「あらゆる人に嫌われない」行動をした結果、不自由なためです。
「あらゆる人に嫌われない」をやめる
関わっている人全てに嫌われない。
それを真面目に実践していると、間違いなく疲弊します。
また、本当に自身がやりたいことも見失います。
何故ならば、そもそも、他者が私を「嫌う」という行動を、この「私」がコントロールすることが出来ないからです。
コントロールすることが出来ないことをいくら目指そうとしても、疲れてしまうだけです。かなり効果が薄いことに対して努力をしていることになります。
例えるなら、天候の雨を止ませることは出来ませんよね。
いくら、「雨が降ってほしくない、止まない雨はおかしい」と願ってみても止みませんよね。
では気候を変動させるほどの装置を手に入れて、雨を止ませますか?
いずれは可能になるのかもしれませんが、今時点では不可能でしょう。
いくら、「この私を嫌ってほしくない、私を嫌うのはおかしい」と言ってみても、相手は嫌ってきますよね。
他者が嫌わないように、気分を変動させるようにするテクニックがあるのかもしれませんが、習得するのに時間がかかりすぎて今時点では不可能でしょう。
では、具体的にどのように行動すれば良いでしょうか?
「課題の分離」を実践してみる
アドラー心理学には、「課題の分離」という考え方があります。
課題の分離とは、「その行動の最終的に責任をとるのは誰か?」を問いかけ、「私」なのであれば、私が責任を持って行動をし、「他者」(自分自身以外全て)なのであれば、土足で踏み込む行動はしない、という考え方です。
具体的には以下のような場面を例とします。
ある親子がいるとします。
一向に勉強をしようとしない子に向かって、
「早く勉強しなさい。成績が悪くなるよ。」
などと声をかけても、
「今からやろうと思っていたのに、、、言われなくてもやるのに、、、今のでやる気がなくなった」
などと、不穏な空気になりながら、結局子は勉強しないし、それを見てますます親はイライラや怒りを募らせる、、、
このようなやりとりに身に覚えのある方もいるかと思います。
このような声かけに効果が無いのは、なぜでしょうか?
一つ目は「成績が悪くなる」といわば脅しをかけて、外発的動機付けによる行動の促しをしています。
ですが、この「成績が悪くなる」に根拠がありません。
また、成績が悪くなると何がいけないのか具体的にどのようなデメリットがあるのか、子は認識していません。
つまり、脅しになっていないのです。
二つ目は、「課題の分離」が出来ておらず、親は子の課題に土足で踏み込んでいます。
子のためを思って、やるべきことをやるように「指導」しているのかもしれませんが、「指導」と言う名の「操作」の意図が見え隠れしています。その目的は「支配」です。
有り体に申し上げますと、親は子を「思い通りに動かしたい」のです。
よく考えてみて下さい。
自分以外の他者が、思い通りに動いて欲しい、と強制してきたら、どのように感じますか?
「四の五の言わすに言うとおりにしろ」
このように言われて、何の抵抗もなく言うとおりに出来る場面は、かなり限られるでしょう。
言葉の裏側に見える「支配」に、心から気持ちよく従う人はいないでしょう。
「課題の分離」の考え方に戻ります。
勉強をしないことで最終的に責任を取らなければならないのは、子自身です。
親が子に変わって責任を取ることは実質的には出来ません。
では、親が子にどのような声掛けができるかと言うと、
勉強をすることのメリット、しないことのデメリットを伝え、勉強をするための支援をする準備があることは伝えます。
また、勉強をするのかしないのか、するならいつのタイミングで勉強をするのかは自分で決めて良い、とも伝えます。
その上で、親としては勉強をしてほしいと願っていることは伝えてもいいでしょう。
その結果、勉強をするのかしないのかは子自身が決めます。
人との会話を爽やかにする
「課題の分離」を心がけて、他者と会話すると、相手に土足で踏み込むことがなくなりますから、自身の発言で不穏な空気になる回数が減ります。
ここで、気をつけなければならないことは、相手からの土足については、キチンと「No」と答えることです。
「その言葉、返答し辛いです」
「その質問に回答はできません」
「その件については、ノーコメントです」
「その会話で私は何も言うことはありません」
場は凍りつきますが、この「私」が「No」を表明していますから、その話題について続行しようという人は、ほとんどいません。
それでも、強引に続けるツワモノが相手でしたら、用事やお手洗いでも思い出して、その場を離れてください。
10分後くらいに何食わぬ顔して戻っても、相手はケロッとしているものです。
嫌なものは「No」という態度でリアクションすることは重要です。
わかりやすいコミュニケーションを取ることにより、対人関係の複雑さを解消できます。
「嫌われたくない」「いい人と思われたい」という思いは、私もよくわかります。
ましてや、そのために相手の気持を考えすぎてしまう。
しかし、これが非常に、対人関係を複雑にし、苦しむ原因の一つになります。
そこで「課題の分離」の考え方を使います。
その課題の責任は最終的に誰が取ることができるのか?
「それは相手の課題であって、私の課題ではない。私の課題ではないのだから、土足で踏み込むことがないように気をつけよう。」
「それは私の課題であって、相手の課題ではない。私の課題なのだから、土足で踏み込まれないように、自分ごととして扱おう。」
なにが「自分ごと」でなにが「他者の課題」なのか。
これを見極めることができるだけで、人に「余計なお世話」をせずに済みます。
また、人から「余計なお世話」を受けそうになっても、明確に断ることが出来ます。
「余計なお世話」を受けそうになった場合、その気持には感謝を伝え、その上で、自分のことなので自分で解決します、とハッキリと言いきれば、ああそうですか、と、相手も爽やかに接している人ならば、引いてくれるでしょう。
「課題の分離」を邪魔する「常識」
「自分の課題」「他者の課題」を分離する上で忘れてはならないのは、「常識」という存在です。
一般常識、業界の常識、若者の常識、会社の常識…などなど。
有り体に言うと「~であるべき」「~するべき」です。
この「常識」を対人関係の免罪符と考えてしまった人が、他者の課題に土足で踏み込んでいることに気づいていないため、対人関係を複雑化させています。
例えば、「赤信号はとまれ、青信号はすすめ」は、交通ルールとして常識ですね。
信号のある交差点。
「私」は歩行者です。
明らかに車の往来が少ない時間帯なのか、車の往来がない。
しかし、正面の歩行者用信号は赤。
隣の人が赤信号を無視して交差点をわたりました。
この場合、信号を無視してわたった隣の人をどう思いましたか?
「私は赤信号を止まってルールを守っているのに、なぜルールを守らないのか?」と憤慨しましたか?
ここで、「課題の分離」をしてみましょう。
「別に車が来ていないのは確認しているようだし、周りに教育が必要そうな児童もいない。ルールを破ることを見たのはいい気持ちはしないけど、彼自身の判断での行動。私はルールを守ることを私自身が決めたのだし、人それぞれだよね。」
信号を無視しようと決心したのは「私」ではなく、隣の人です。
また、ルールを守ると決心しているのは「私」であり、隣の人ではありません。
ここで、このように課題の分離をしてみても、腑に落ちない場合、次の可能性も考えます。
ルールを平気で破る他者を見て、憤慨してしまった自分の心の裏には、本当はルールを守りたくない自分がいるのではないか?
その場合、この「私」の決心を変えて、目視で明らかに車が来ていない赤信号は無視してもよいのではないか?という可能性も考えてみます。
しかし、信号が赤なら止まれ、青なら進めというルール。
赤だけど、車が来ているか来ていないかをその都度判断して、わざわざ無視する、しないを決定するのはよくよく考えたら面倒くさくないか?
何も考えずに、信号を見て赤なら止まれ、青なら進めのほうが楽ではないか?
そもそも、ツールとしてのルールだし、何より効率的では?
他にも考えたり判断したりすることはたくさんあるから、信号くらいルールに従ったっていいんじゃないか。
ルール=強制力というイメージだったけど、ルール=ツールというイメージで考えれば、今までなんだかもやもやしてたのがバカバカしくなったので、一周回って、脳死で信号は守るのが一番効率的だな。
…と、これは私が以前に考え至った思考内容を言語化してみました。
これが正解、と言うつもりはありません。
あくまでも私が考え至った過程が参考になれば幸いです。
まとめますと、
「課題の分離」という思考・行動には、「常識」が立ちはだかる。
「常識」が他者の課題に土足で踏み込むきっかけになりうる。
「常識」は共通認識を持つためのツールであって、人々を強制させる免罪符ではない。
【嫌われる勇気】というタイトルからの誤解
積極的に嫌われましょう、傍若無人に振る舞いましょう、という意味ではありません。
対人関係に最低限の礼節は必要ですし、適度な距離は必要です。
「常識」を守っていても、この「私」を「嫌ってくる人」というのは必ず現れる、という認識で、物事をはじめましょう、ということです。
「嫌ってくる人」は必ず現れるという認識を持つ「勇気」を持ちましょう、と言っています。
また、この「私」からしたら「余計なお世話」にあたる、他者からの自分の課題の土足で踏み込みそうな発言や行動には「No」という「勇気」を持ちましょう、とも言っています。
さらに「勇気」という言葉も非常に誤解しやすい言葉です。
破れかぶれや、開き直り、運を天に任せるような「蛮勇」的な思考や行動は「勇気」ではなく、単に「無謀」なだけです。
自分の課題を認識し、その課題をこなしていくこと、他者から自分の課題に土足で踏み込ませないことが、まさに「勇気」です。
「勇気」は技能である
すぐにはうまく「勇気」を発揮できないかもしれません。
習慣を変えるわけですから、少なくとも2週間は変化に気づけない可能性が高いです。
ですが、これらの「勇気」の習慣は、他の技能の習得と同じで、毎日の積み重ねが最も近道です。
そう、「勇気」は技能で、後天的に身につけることが可能なのです。
今すぐ、この瞬間から対人関係に「課題の分離」の考え方を適応してみてください。
関わる人間、耳にする情報、見えている世界に変化が現れたら、「勇気」を発揮することが出来ています。
2週間ほど経過して、何も変化しない、むしろ悪化した、という場合はそのような人は、「勇気」という技能を身につける前に休息が必要なのかもしれません。
休息が必要かもしれない、と思い当たる節がある人は、私は門外漢です。心療内科やカウンセラーなどの専門家に相談して、今やるべき行動のアドバイスを貰ってください。
「勇気」の技能が身についた手応えがあった人は、この「課題の分離」を続けてみてください。
もし、具体的な対人関係の悩みなどがございましたら、相談を受け付けておりますので、連絡ください。