白日のバカンス
「このモクレンが咲いたら、きっと私は死んじゃうわ」
クオンティカの言葉を聞いて、ゲーレンはパネルを操作していた手を止めた。
クオンティカは抱きしめるようにガラスケースを抱えている。
長方体のケースの上に、クオンティカは顎を乗せていた。
蜜蝋でできたかのような重たげな蕾は、今にも綻びそうだった。
「やっとこっちを見た。ずっと話しかけていたのに」
クオンティカは不満そうに眉をしかめた。
ゲーレンはずっとパネルを凝視していたので、疲れ目によりクオンティカが二重になって見えた。
「死ぬって、一体、どうして」
ゲーレンは目頭を押さえながら言った。
クオンティカの言うことはいつもデタラメで不真面目なことばかりだけど、物騒な冗談を言うタイプではないと思っていた。
「ずっと説明していたじゃない」
「あぁ、ごめん、もう一回聞かせて」
だから、と言ってクオンティカはガラスケースに頬ずりをした。
クオンティカの虹色の瞳が、うっとりとハクモクレンを眺める。
「私のバカンスの目的は、このモクレンを見ることだったのよ。今日の朝、この白い蕾に、陽射しがぱっと差し込んで、蕾がわずかに色づいたとき、そう確信したの」
クオンティカのチューブのように太く艶やかなな髪の毛が、カーテンのようにケースを覆った。
「くだらない冗談を言うな」
ゲーレンはそう言って、乾いた笑い声を立てた。クオンティカの言うことは馬鹿げていると、必死に思い込もうとした。
けれど、ゲーレンは知っているのだ。クオンティカの直感はいつも正しいということ。
生まれたときからずっと側にいるクオンティカがいなくなるなど、ゲーレンには想像もできない。
「僕を置いていくなんて、薄情だ」
ゲーレンは責めるように吐き捨てる。
「置いていくとかじゃないの。私は私の道を、あなたはあなたの道を歩いているだけよ」
クオンティカはガラスケースをテーブルの上に置いて、ゲーレンの背中に手を回した。
「仕事ばかりしていちゃダメよ」
「僕はずっと君のために仕事をしていたのに」
「嘘言わないで」
クオンティカはぴしゃりと言った。
「あなたが仕事ばかりしていたのは、そうしていたほうが楽だからよ」
夕食は二人で鳥を煮た。死んだ鳥の黒々とした目が、じっとこちらを見ているようで、ゲーレンは薄気味悪く感じた。
クオンティカの虹色の瞳は、死んだらどんな色になるのだろう。
輝きを失ったクオンティカの目。ゲーレンは慌てて首を振り、思考を打ち消した。
想像しようとしただけで、恐怖が喉の奥から駆け登ってきた。
スプーンで皿の上の肉塊を切り分けた。
ずろりと引き摺り出された焼けた血管から、スープが滴り落ちた。
ゲーレンはそれを口に含んだ。鳥の皮の表面はブツブツして、やわらかく、脂は甘かった。
クオンティカはナプキンで口を拭った。そのあと、そのナプキンで目をこすった。
「あら、まつ毛が抜けた」
クオンティカはおかしそうに微笑んだ。
「長いまつ毛。見て、私の小指の爪の長さくらいある」
クオンティカがナプキンをゲーレンに差し出した。
抜けたばかりのクオンティカのまつ毛は、まだ生気を保っている。
「さっき食べた鳥の毛は、すべてむしってしまったわ。悪いことをした……私は食べられるなら、私のまつ毛まで食べて欲しいもの」
クオンティカの透明な皮膚の下にある胃が、今食べたばかりの鳥を消化している。
食物を消化してエネルギーに変えるとき、胃腸はかすかに緑色に輝く。
外敵から逃れるため、進化の過程でトランスルーセントの肉体を獲得した。
最後の夜に深く抱きしめ合った。
クオンティカの体内に、レーゲンは触手を差し込む。
クオンティカもまた、体内で細い糸のような無数の触手を伸ばしてレーゲンに触れた。
クオンティカの透明な体内で動く自分の触手を、レーゲンは呆然と見つめた。
どれだけ触手を触れ合わせても、クオンティカはレーゲンのものにはならなかった。最後まで。
翌朝目覚めたレーゲンの隣で、クオンティカは眠るように死んでいた。
クオンティカの手の中にあるガラスケースの中で、モクレンの花びらが溶け落ちた蝋燭のようにくたりと花弁を広げていた。
クオンティカの死体は、四肢の末端から灰褐色に変色し、硬くカサカサとしていた。脛に触れたら、木炭のようにほろりと崩れた。
ツーンという高い金属音がした。
頭が割れるように痛み、それからレーゲンは深く息を吸って吐き、喉の奥から熱い涙が上がってきて、目の端から溢れた。
家の壁を通り抜けて、レーゲンの隣にやってきたのは、クラゲのような姿をした、レーゲンの背丈のニ倍ほどもある生き物だった。
その生き物はホースのような脚を伸ばして、クオンティカの体に取り付いた。
生き物はひどく目が悪いので、トランスルーセントのレーゲンの体を見ることはできない。灰褐色になった死体だけを見つけて近寄ってくる。
生き物は脚の先から、脆くなったクオンティカの体を吸い込んだ。
ズゾゾゾゾ、と吸引する音がする。
レーゲンは隣で、声を殺して泣いた。生き物が去ったとき、クオンティカのまつ毛一本も残っていなかった。
犬がワンと哭いて目を覚ます。
レーゲンの視線の先に、犬を抱いた人がいる。
レーゲンは列車の中で眠っていた。
家に帰る途中で、居眠りをしてしまったのだ。
最近途方もなく体が疲れている。
年齢のせいだろうか、とレーゲンは思った。
あと5年生きれば、レーゲンは平均寿命に達する。
退職金の代わりに、金剛石でできたスーツケースを貰った。
レーゲンはそれにもたれて眠っていたので、表面にレーゲンの唾液が付着していた。
「こんなに立派なスーツケースなんだ、死んだあとも天国まで持っていけるよ」っと工場長はおどけて笑った。
レーゲンは無表情で頷いた。
あまりにも馬鹿馬鹿しくて、口を開く気にもならなかった。
列車の窓の外を眺める。
レーゲンの乗っている列車の隣のレールを、黄色い列車が並走している。
風の音がする。
レーゲンは立ち上がって、前の車両へと向かった。
置き捨てられたスーツケースは、電車が揺れた拍子に、バタン!と倒れて床に転がった。
レーゲンは一度振り返って、キャスターが回転するスーツケースを見たが、それだけだった。
先頭車両にたどり着くと、運転席の後ろから正面のガラス窓を覗き込む。
真っ暗な闇だった。
遠くに見える青い光と赤い光が、交互に明滅している。
信号機だ。
赤と青の光は、猫の目のように、中央に白い縦筋があった。
信号機は、「進め」「止まれ」「進め」「止まれ」とサインを送る。
クオンティカの内臓の緑色の光を思い出した。
若い頃に喪ったパートナーのことを思い出すのは、たまらなく苦しい。
自分が途方もなく愚かだと、突きつけられているような気分になる。
走馬灯のように脳裏を駆け抜ける、クオンティカとの思い出。
クオンティカを失ってからの思い出。
死が迫っているのだと、レーゲンは直感した。
自分の人生は、進んでいたのか?
止まっていたのか?
信号機がなくなった。列車は止まることなく走り続ける。
トンネルに入り、闇が迫ってくる。
恐ろしいけれど、レーゲンは目を閉じるとこができなかった。
血の臭いのする黒煙が、窓の隙間から入り込み、レーゲンの体の横を通りすぎていった。
それからやってきたのは、光だった。
トンネルの出口から差し込む、豆粒みたいな小さな光は、だんだんと大きくなる。
その光に食いちぎられるだろうとレーゲンは思った。
闇よりもいっそう恐ろしかった。
レーゲンは歯を食いしばった。目を見開いて、光を凝視する。
逃げてはだめだ、とレーゲンは思った。
もうニ度と、クオンティカと会えなくなってしまう。
レーゲンは両足を踏ん張って仁王立ちになり、両腕を広げた。
全身で光を受け止める。
光に飲み込まれる最後の瞬間に、レーゲンはようやく、モクレンが咲いたときのクオンティカの気持ちが理解できた気がした。
おしまい。
イラストレーション:かやの
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