永劫と星の瞬き
その黒い竜はゲーエンナームという名であったが、長い時を経て半ば伝説上の存在となり、偉大なその名はさまざまに変化して伝わった。「ガイエンノーム」「ゲーノーム」「ギエナム」そのほか尊称、あざ名が数えきれないほどあるが、「エーアー」と呼ぶのは、ちっぽけな生き物ただ一人であった。
「エーアー、お話して。寝る前のお話をして」
「幼子よ。黙って寝ろ」
小さな生き物は、ゲーエンナームの長い顎髭を引っ張る。ゲーエンナームは煩わしそうに頭を振ると、白い髭を掴んだままの幼子の身体は宙を舞った。幼子は振り落とされないように、両手でしっかりと髭を握り締め、ケラケラと笑った。
「髭を触るなと何度言ったらわかる? 莫迦な子だ」
ゲーエンナームは振り回した幼子をベッドの上にゆっくりと降ろした。そのベッドは木の枝と藁と落ち葉を集めて作った、大きな鳥の巣のようなベッドだった。
硬い鱗をもつゲーエンノームにベッドは必要ないが、柔らかい皮膚をした人間の幼子にはベッドが必要だという。「人間の赤ちゃんには揺籠が必要なんだよ」と、人間とよく似た姿をしたゲーエンノームの古馴染みは、そう言っていた。揺籠を作ることはできなかったので、ゲーエンノームは時々、巨大な舌の上に赤子を乗せて、揺らしてやっていた。
赤子はすっかり大きくなったので、もう舌の上に乗せることはない。
幼子はときおり、「ぼくは小さいころ、赤いものに包まれて温かくて湿った暗いところにいたよね。あれはどこ? あそこに帰りたい」と言う。ゲーエンナームは「さあね」と知らないふりをしていた。もう一度やって、とせがまれたら困るからだ。
幼子はベッドにぴったりと耳をつけて、大地の音を聞いた。ゲーエンナームが巣としたこの洞窟は、火山の噴火によってできた溶岩洞窟だった。すぐそばに生きた火山があり、ときおり炎を吹く。その熱によって、大地は常に温かい。
「今日はご機嫌みたい」
火山の地響きを聴いて幼子は言った。幼子は火山の音を聴き、日によって「今日は笑っている」「今日はちょっと怒っている」「今日は歌っている」などと言った。ゲーエンナームは幼子のつむじを、湿った鼻先で押した。ゲーエンナームの鼻先は幼子の頭の三倍ほどの面積がある。
赤子の体毛はすべて透明で、光に当たると虹色に輝いた。透明な肉体の下には銀色の血管が巡らされている。上半身には臓腑が詰まっている。心臓が規則的に躍動しているのを、ゲーエンナームは確認する。胃の中に内容物が何もないのを確認すると、ゲーエンナームは言った。
「そろそろ餌を食べておいたほうがいいな」
ゲーエンナームは素嚢に溜めていた肉をひとかけらだけ吐き出して、長い舌を突き出して幼子に与えた。幼子はゲーエンナームの下の上に載っている、拳大の湿った肉を手にとった。
幼子は赤茶けた肉塊をぼんやり眺めた。
「これを食べるとぼくは、お腹の底がぎゅーってあったかくなって、胸が熱くなるんだ」
「なんだ。食べたくないのか」
幼子はぶんぶんと首を横に振った。
「ちがうよ、エーアー。食べたくないけど食べたいんだ。なくなったら嫌なんだ。ずーっと食べていたいんだ。これがずーっとずーっと僕の口の中にあればいいのにって思うんだ」
ゲーエンナームはフッと笑った。幼子の透明な細い髪の毛がゲーエンナームの鼻息でそよいだ。
「おまえはそれを食べると幸せになるんだね」
「ふうん」
幼子はじっと考えこむ。幼子の紫色の瞳が細められる。
「これはぼくのお父さんなんでしょう」
「そうだ。そうだが……おまえに言ってあったか?」
途方もない時間を生きてきたゲーエンナームは、短期的な記憶がかなり曖昧である。
「ぼくが3歳と78日のとき、お昼ごはんのあとで、これはなあにってきいたら、エーアーが言ったんだよ。おまえの父親だって。ぼくはこの世界では生きていけないはずだけど、お父さんの肉を食べてるから生きていけるんだって。その日は夜にエレヴが来て、エーアーに怒ってたよ、子供にはまだ早いからって、それで……」
「もうよい」
幼子は突出して記憶力がよく、幼少期の記憶がはっきりしている。利発なのはいいことだが、口が達者なのでゲーエンナームは閉口している。
鍋底にある世界で誕生した卵だが、鍋底にある世界に産まれ落ちることなく、水瓶に浮かぶ世界に流れ着いた。本来ならば生き延びることなどできないが、ゲーエンナームが卵を温め、父親の肉を体内に取り込むことによって、幼子はかろうじて生きているのだ。
「お父さんを食べるとしあわせになるってことは、お父さんはぼくのこと好きだったよね」
好意も憎悪も、そして愛情も、すべては伝達される。この世界の法則を、幼子はすでに理解していた。
「そうとも。おまえの父親も母親もおまえを愛している」
ゲーエンナームは幼子の顔を舐めた。口についた竜の唾液を舐めて、幼子は微笑む。
「エーアーもぼくをあいしているよね」
幼子の満面の笑みを浮かべる。ゲーエンナームは返事をしなかった。訪れた沈黙に、幼子はきょとんとした。
「あいしているでしょ?」
「僕もきみを愛しているよ」
光る砂を両手いっぱいに抱えた男が、洞窟の中に入ってきた。男は水瓶に浮かぶ世界には珍しい、二足歩行をしていた。人間の肉体を持っている。水瓶に浮かぶ世界で人間の形状をしているのは、おそらく男と幼子の二人きりだった。
幼子は飛び上がって、ベッドから駆け降り、男の腰に抱きついた。
「エレヴ、どうしてしばらく来てくれなかったの!」
「きみのために星屑を集めていたんだよ」
エレヴは幼子の頭の上に光る砂を降らせた。
「すごい! すごい!」
「子供が寝る前に来るんじゃないよ莫迦者め。興奮して眠れなくなるだろう」
ゲーエンナームが尻尾で地面を叩いたので、土埃が舞った。
「悪いと思ってるよ。さあ、今日は僕と一緒に眠ろう」
エレヴは幼子を抱き上げると、ベッドの上に寝かせ、その隣にエレヴも寝転んだ。ベッドは狭いので、エレヴは長い手足を折りたたむことになった。
「エレヴはぼくのお父さんとお母さんのことを知っているんだよね?」
「知っているよ」
「どんなひと?」
「強くて優しいひとたちだよ」
「ふーん、……ふふ」
エレヴが幼子の腹を優しく規則正しく叩くと、だんだんと幼子は眠りの世界へと誘われて行く。
「ぼくのしあわせはね、お父さんを食べるときと、エーアーの舌の上で揺れているとき……」
そう言い残して、幼子は眠った。
「ゲーエンナームの舌の上?」
エレヴが訝しげにゲーエンナームの顔を見たので、ゲーエンナームは赤い瞳でエレヴの顔を睨んだ。
「おまえが言ったんだろ。赤子は揺らすものだって」
エレヴは肩をすくめながら、幼子を起こさないように静かにベッドから出た。
ゲーエンナームは首を下げて、地面に伏せる。エレヴの身長と同じ高さの位置に、ゲーエンナームの角と耳があった。エレヴは囁いた。
「鍋底にある世界から、こちらへ『 』が漏れ出している」
ゲーエンナームは眉を顰めた。エレヴがこんな夜更けに訪れた時点で、吉報ではないと察していたが、想定よりも嫌な知らせだった。
「あの子が心配で急いで来たんだ。気をつけて。きみは多少は平気だろうけど、あれに触れたらあの子は簡単に死んでしまうよ」
エレヴが幼子に与えた星屑は、魔除けであり祝福であった。
「……善処しよう」
ゲーエンナームは重々しく返事をした。エレヴはベッドに戻り、そっと幼子を抱きしめた。悪しきものから守るように。
ゲーエンナームは古い記憶を辿る。
一頭の雄がゲーエンナームに求愛した。
「番になってくれ、淋しくて、今にも死んでしまいそうなんだ」
雄は酷く哀れっぽい声を出した。ゲーエンナームは雄の要求を鼻で笑った。
「そんなものは、世界と繋がることを忘れてしまった者だけが陥る病だ。そんなことを言っていると、そのうち鍋の世界へ堕ちてしまうよ」
「あぁ、あぁ、ゲーエンナーム、淋しいんだ。この淋しさを埋めてくれよ。おまえでなければ埋められないんだ、この穴は塞がらないんだ、底なしの穴を埋めてくれよ」
雄は譫言のように口走りながら、ゲーエンナームの尾を掴み、肛門のにおいを嗅ごうとした。ゲーエンナームは瞬時に激昂し、巨大な翼で軽々と飛翔する。天空まで雄を引きずると、翠色に煮えたぎる火山の火口に雄を叩き込んだ。
その後の話はエレヴから聞くこととなった。エレヴは水瓶に浮かぶ世界と鍋底にある世界を行き来することができる、稀有な生き物である。
雄はいつしか鍋底にある世界に流れつき、怪物となって、強大な力をもってして鍋底にある世界を支配した。気の遠くなるような時間、世界に君臨し続けた。やがて老いて死んだあとで、人間たちはその怪物の肉を割いて食べ、血の一滴に至るまでをすべて飲み干した。その狡猾で邪悪な性質をすべて受け継ぎ、支配する者、支配される者にわかれて争いを続けているという。永い争いによって大地は穢れ、水は汚れ、その毒が水瓶に浮かぶ世界に染み出そうとしている。
ゲーエンナームはベッドで眠る幼子を眺める。
どれだけ長い時間を生きていようとも、この幼子に抱く感情の名前をゲーエンナームは知らなかった。
先ほど、幼子はゲーエンナームを見て、心から幸せそうに微笑み、言ったのだ。「エーアーもぼくをあいしているよね」
無垢な幼子の声の、なんと甘やかなことか。
「私はこの子を愛しているのか?」
ゲーエンナームは自問する。洞窟にかすかに反響する問いに答えるものはない。
まったく面倒な生き物を拾ったものだ、とゲーエンナームは思った。星が瞬く間に死んでしまうと脆弱な生き物だというのに。遥か先の未来、この人間が死んだ後も、ゲーエンナームは今夜を忘れることはないだろう。
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