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ブラッディ・メリークリスマス

 今日は十二月七日の水曜日。水曜日ってやつは最悪だ。会社員ならみんな知ってることだけど。月曜火曜と働いて、終電で帰り、今週の出勤日があと三日もあることに絶望して、現実逃避をするために疲れ切っている体にストゼロを流し込んで、炬燵で寝落ち、朝日の眩しさで目覚めてタバコを吸う。始発の電車に乗る、水曜日の朝。次の休みまで、あと三日も働かなくてはいけない。

 毎日働いてるときの記憶はない。今日は気づいたら、上司の靴跡のついたレジュメを握りしめていた。あれ、俺、なにしようとしてたんだ?

 電車に乗って家に帰る。最寄駅から家に向かって歩いてる途中、なぜだかわからないけど涙が止まらなくなって、このままじゃヤバいと思ってローソンに駆け込んで鬼ころしを買った。赤鬼の描かれた紙パックにストロー刺した。酒が喉を焼く熱で、涙はようやく止まった。よかった。涙が止まらなくなるなんて、故障かと思うじゃん?

 築三十年のアパートの二階、オートロックもセキュリティもない、この土地で一番安い家。鍵を開けて中に入ると、ワンルームの狭いキッチンの前に、真っ赤な不審者が立っていた。とっさに、血だ、と思った。不審者の男はあまりにも赤かったので、人を殺して、返り血で真っ赤になっているのだと思った。一人暮らしの俺の家に、血染めの知らない男がいる。しかも、でっぷりと太った体格のいい男だった。鶏ガラのような骨骨しい体しか持たない俺は、戦ったら負ける。確実に。

「ア……ア……」

 悲鳴を上げようと思ったのに、首を絞められているときのように喉が苦しくて、掠れた声しか出てこない。怖い、苦しい、怖い、苦しい。

 俺は玄関から後ずさる。足が震えて思うように歩けず、尻餅をついた。空になった鬼ころしのパックが、カラカラと音を立てて転がっていった。

 男は俺を見て、笑顔で近づいてきた。これはなんだ? 人殺しを罪だとも思わない、快楽殺人者か?ほっぺの赤い、ごま塩の顎髭を蓄えた陽気な表情のおじさんは、俺に手を差し出して言った。

「Merry Xmas!」

 やたら流暢な発音だった。

 恐怖で固まった俺を見て、おじさんは不思議そうに肩をすくめる。それから慌てて、つるつるに禿げた頭に三角の赤い帽子を被った。

 近くで見ると、おじさんの服は血染めで赤くなっているのではなく、上下のそろった赤いサンタクロースの衣装だった。

 家に知らない殺人鬼がいるのと、知らないサンタコスのおじさんがいるの、どっちがましかと問われればサンタコスのおじさんだが、どちらにしてもヤバいのは変わらない。

「ハジメマシテ、きみは山下勇気クンですか?」

 サンタクロースは俺に尋ねた。残念ながら、俺は山下勇気という名前ではない。不審者のターゲットが俺ではなかったことに深く安堵する。

「人違いです」

「オーマイゴッド!」

 サンタクロースは驚きに目を見開き、床に崩れ落ちた。

「ここは山下勇気クンのアドレスだったハズですが……」

 そういえば、ときどき届くダイレクトメールの宛名が山下だった気がする。

「前住んでた人じゃないっすか?俺、数ヶ月前に引っ越してきたばかりなんで」

「間に合わなかっタ……」

 サンタクロースは青い瞳から大粒の涙をこぼし始めた。

「もう、ワタシ、勇気クンに謝ることがデキナイ……」

 四つん這いになって嗚咽する巨漢のサンタクロースを前にして、俺は百十番をするべきか迷っていた。

「ワタシ、サンタクロースの幽霊です」

 サンタクロースは言った。そのとき、俺はスマホのコール画面を開いていた。床に落ちている鬼ころしの赤いパッケージが目に入る。もしかして俺が酔っている?

「ワタシ、死にました。去年のクリスマスイヴの夜に」

 サンタクロースはさめざめと語った。

「ワタシ、仕事に追われて毎日ほとんど寝ていませんでした。プレゼントの製造、発注、梱包。直前になって欲しいものが変わる子もいますから、子供たちへのヒアリングも欠かせません。世界の子供は増える一方、サンタクロースは薄給激務で後継者減るばかり。しかし子供たちはサンタクロースを待っています。ワタシは休むわけにはいきませんデシタ」

 ああ、と俺は頭を抱えた。いくら会社のシステムがクソだろうと、上司がパワハラクズ野郎だろうと、心優しい同僚たちを困らせたくない一心で働いている。俺にはサンタの気持ちが分かる。

「秋から冬にかけて、四時間以上眠った日はありませんデシタ。二十四日の明け方、あと一軒でプレゼントを配り終わるというそのとき、ワタシは急に胸が苦しくなり、トナカイの引いていた空飛ぶソリから地上へと落下しまシタ……そしてワタシは死んだのです」

「それは労働災害じゃないですか?」

「労災などありません。サンタクロースはフリーランスですから」

 サンタクロースを憐れに思い、気づけば俺は号泣していた。サンタクロースの広い背中を撫でてやろうとしたが、触れることはできなかった。幽霊だから当然だ。

「最後に届けることができなかったプレゼント……山下勇気クンのことだけが気がかりで」

 サンタクロースがポケットから取り出したのは、ポケモンの腕時計だった。潰れた箱に茶色いものがこびりついているのは、サンタクロースの血だろうか。

「……悪いけど、それを山下勇気くんにあげるのやめたほうがいいっすよ。山下勇気くんの一生のトラウマになるんで」

 幽霊サンタから血まみれのプレゼントを貰うのは山下勇気くんもさすがに嫌だろう。

「そうデスヨネ……」

「人生にはどうにもならないこともあるんすよ。プレゼントは届かなかったけど、不条理を知って山下勇気くんは大人になったんですって」

 俺は呂律の回らない舌でサンタクロースのことを慰めた。どうやら鬼ころしの酔いがかなり回ってきたらしい。

「デモ、それではワタシの気が済みません。成仏できません。アナタ、何か欲しいものはないですか?」

「え?俺?あ~~なんだろ」

 俺はぐるぐる目を回しながら考える。

「仕事行かずにポケモンやりてえ。バイオレット……スカーレット……。アルセウスもさ……買ったのにまだやれてないんだ。あれ発売からどんだけ経ったっけ……?」

「フム……」

 サンタクロースは顎髭を撫でながら考える。

「ワタシみたいに過労死する前に会社辞めたほうがいいデスね……」

「いいなそれ……会社辞める……」


 気づいたら俺はスーツのまま、玄関で寝ていた。床には鬼ころしの紙パックが落ちている。急速に胃液が上がってきて、靴のままトイレに走って、便器に抱きついて吐いた。夕食も食べずに酒だけ飲んで寝たらしい。 

 台所の前に長方形の箱が落ちていた。子供向けの、ピカチュウの絵柄のついた腕時計だった。箱が茶色く汚れていて不気味だったが、なぜか俺は箱を開けて、時計を左腕に嵌めていた。ピカチュウとの思い出はどれだけ歳を取ろうと色褪せることはない。

 オフィスに着くと、上司が俺を睨んでいた。

「オマエ、どういうつもりか知らねえが、捨てといたからな」

 理由もなく因縁つけられるのは慣れているので、「はあ、すみません」と適当に謝る。上司は瞬間湯沸かし器のように、予告もなく激昂した。

「すみませんじゃねえだろ!絶対辞めさせねえからな!」

 俺は二日酔いの頭で、ぼんやり首を傾げながら、自分のデスクについた。

 隣の席の山田さんが俺に耳打ちする。

「退職願出したって本当ですか?」

「え?」

 記憶にない。

「いや?なんか誤解じゃないですか?」

 書類を取り出そうと引き出しを開ける。たどたどしい字で『退職願』と書かれた大量の封筒が、引き出しから溢れて床に散らばった。

「なんだこれ」

 パソコンを立ち上げてファイルを開くと、昨日までに俺が作ったはずの資料、ワードもパワーポイントもエクセルも、全て俺の名前の退職願に書き換えられていた。マウスを触っていないのに、カーソルが勝手に動きだし、『印刷』をクリックする。

 ウィーン!ウィーン!と古いプリンターが轟音を立てて印刷を始めた。印刷は止まらない。俺の退職願いが何百枚と印刷され、オフィスの中を紙が舞った。

「おい、つまんねえ冗談はやめろっつってんだろ!」

 上司が俺の胸ぐらを掴んだ瞬間、オフィスの電気が激しく明滅した。

 カーテンが揺れる。誰も触っていないのに、窓がガコンガコンと音を立てながら、開いては閉じ、開いては閉じる。

「地震か!?」

 オフィス内は大混乱だった。次々悲鳴が上がる。
 怯えきった社員たちが外に逃げようとドアに殺到する。

「ドアが、ドアが開かないぞ!」

 自動ドアはびくともしない。人間がドアの前でだんごになって、おしくらまんじゅう状態である。

 そのうち、椅子が宙に浮いた。椅子がびゅんびゅん空を飛ぶ。ハ○ー・ポッ○の映画でしか見たことない光景。
 誰かがまた叫んだ。

「幽霊が!」

 事務の女の子が窓際を指差していた。

「血だらけの真っ赤な幽霊が!」

 真っ赤な幽霊? なんだ? なんかどこかで見たことあるような。もしかして今、呪われてるの俺?

 幽霊という言葉を聞いて、誰かが言った。

「これは幽霊の仕業だ!」

 社内のスピーカーから、ガサガサ、ブツブツと音がする。やがて、

『メリークリスマス! ハッピークリスマス! ブラック・カンパニーにホワイトクリスマス!』

 流暢な発音でおじさんの野太い声が社内に響き渡る。

 そのとき俺は昨夜の出来事を思い出した。これは血だらけの幽霊の呪いではなく、サンタクロースの幽霊のプレゼントだ。

 オフィス内は大混乱に陥っていた。俺はオフィス全体に聞こえるように、腹に満杯に空気を溜めて、叫んだ。

「会社、辞めまあああああああす!」

 オフィス内はシンと静まり返った。宙に浮いていた椅子は床に落ち、窓はひとりでに開閉することをやめた。俺の胸ぐらを掴んでいた上司は、呆然として床に大の字にひっくり返っていた。

 俺は荷物をまとめる。

 スピーカーから再び音がした。

『メリークリスマス! ナイスなサンタのポルターガイストをキミにプレゼント!」』

「さっさと成仏しろよ!」

 俺はスピーカーに向かって言った。

『もう戻ってきたらダメデスよ』

「アンタもな!」

 俺が何かを言うたび、オフィスの人々は怯えて肩を震わせた。

 オフィスの出入り口に向かうと、自動ドアは難なく開いた。

 退職願を握り潰しまくることで有名な上司だが、これで俺の退職願は速やかに受理されるだろう。

 時間を確認しようと思って左腕を見ると、ポケモンの時計の長針が取れていたので、俺は笑ってしまった。

 まったく、大雑把で荒っぽいサンタクロースである。



終わり

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