バシュランギおじさんと、小さな迷子~映画に見る全緘黙
去年1年間、Twitterで、
人丸先生の御紹介をしておりました。
世間様と、私の視点が、
かなりズレているように思いますので。
皆様に新たな視座を御提供出来ればと思い、
記事に致します。
お断りしておきますが、私!
「バシュランギおじさん」大好きですからね!
14~15回は見て、
その都度、ハンドタオル片手に、映画館で号泣してたぐらいで。
この映画の好き嫌いではなく。
検証したいのは、
映画の構成と言うか、
映画における「全緘黙(ぜん かんもく)」の扱われ方です。
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緘黙(かんもく)には、以下の2パターンあります。
①全緘黙=
器質的な障害があるわけではないのに、全く言葉が出ないこと。
②場面緘黙(部分緘黙)=
特定の場面や状況で、言葉が出ず、話せなくなること。
バシュランギおじさんに出て来るムンニーは、
全緘黙(ぜん かんもく)の女の子ですよね。
「緘黙」に注目すると、
この映画は、以下の4段階構成となっています。
-1)生まれてこの方、全緘黙
-2)全緘黙のまま、成長
-3)いろいろあって、迷子
-4)最後の最後に、
本人にとって衝撃的な/
あるいは
「どうしても!」声を出したい場面が発生
-5)突如、発声
5段階を経て
「全緘黙の子供が、突如、声を取り戻す」という一連の流れは、
キルギスの映画「馬を放つ」でも、確認出来ます。
「馬を放つ」では、子供は迷子にこそ、なっていませんが。
・生まれてこの方、全緘黙
・全緘黙のまま、成長
・最後の最後に、衝撃的な場面に遭遇
・突如、発声
の流れは、一緒です。
クライマックスでの発話/発声により、
「全緘黙の子供が、声を取り戻す」というサブテーマを、
ドラマティックに仕立てることが可能なので、
映画的には、まあ有りかなとも思うのですが。
医学的には、一昔前は
・緘黙(場面緘黙含む)は、大人になれば自然治癒する
と、考えられていましたが、
ところが、最近では
・大人になっても緘黙症が改善せず、
そのまま喋らないケースが一定数あり、
緘黙に対するこれまでの認識=成長につれ自然治癒するを、
根本的に改める必要があるのではないか?という意見があり。
こんな展開で
・全緘黙の子供が
・突如、喋り始めたら
医療関係や教育関係は、
<誰も苦労してないよな>と思うと同時に。
なぜ
-1)インドやキルギスで、同様の展開を見せる映画が作られているのか?
-2)日本や他国で、同様の展開を見せる映画が作られてるのか?
-3)日本や他国で、同様の展開を見せる映画が作られていないのならば、それは何故?
-3)インドやキルギス辺りで、全緘黙の子供が生じやすい(要は世間がそういう子供を認識しやすい)何か、気候、風土、民族風習的なものがあるのだろうか?
等々、
「バシュランギおじさん」を見て以降、
不思議で、不思議で、仕方がないのです。
「全緘黙」の子供というのが、
-1)映画製作サイドの意識に上がって来ない
⇒つまり、「全緘黙」の子供は隠れた存在
-2)障碍の取り扱いの問題で、製作サイドとしては「扱いにくい」
⇒結果、「全緘黙」をテーマに映画が作られていない
等々、理由はいろいろ考えられるかと思うのですが、
皆さん、どう思われますか?
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