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ある詩人のイディオレクト
【忘れ物】
突然頭に強い衝撃が走った。旅行先の長野でのことだ。
気が付くと、ベッドに横になっていた。隣にいた看護婦が心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫ですか。ご自身のお名前と今がいつか分かりますか?」
「……細川……雄太郎。平成八年五月……」
「倒れられたのは昨日のことです。一過性の脳虚血症だったんです。脳の血管が一時的に詰まったんですよ」
「美津は……」
といいかけて、妻を昨年失くしていたことを思い出す。しかも、おそらくここは長野の病院だ。頭を殴られたような気がしたのは、意識が途切れる前兆だったらしい。結局、翌日、娘が着替えなどを滋賀から持ってきてくれた。
「みなさんには連絡しておきました。しばらくは安静だそうです」
娘は、こちらに気を使ってか、会話というより語り掛けるような内容が多かった。子供のころに一緒に行った水口神社の祭り、いろいろな曲を歌ってくれた母、家によく来ていた関沢。そういえば、その関沢も四年前に鬼籍に入った。
病床でぼんやりしていると、最後に関沢と京都の河原町で杯を交わした夜のことを思い出した。随分と酔ってから、
「雄ちゃんのほうが、俺より何倍か幸せだ」
という。この頃までに、美空ひばりの「柔」をはじめ、舟木一郎「学園天国」、北島三郎「歩」、村田英雄「皆の衆」など、歌い継がれるヒット曲を連発していたにもかかわらずである。
細川も関沢も書けない日もあった。童謡よりも歌謡曲でその才能を発揮した関沢だったが、商業ベースでは、その苦しみは深かったろう。しかし、関沢をして細川のほうが幸せだったといわしめたのはプロの作詞家としての苦しみに苛まれないからという意味ではないようだった。真意を質すと、ろれつが回らない口調でこういった。
「周りを育てたじゃないか。そして、細川語とでもいうべき詩を作り出す才能を伝えた。それは、同じ生みの苦しみを経験していても後に残るものが違う。しかも、滋賀県文学祭に『作詞部門』を創設して自ら審査をかってでている。これはおそらく雄ちゃんの死後何年、いや何十年も残っていくもんや」
うなずいて、続きを促す。
「ことわざに、『魚を一匹やれば一日食いつなぐが、釣りを教えれば一生食いはぐれることはない』というのがあるが、俺はこの先があると思う。つまり、その釣りの技術を後世に伝えるための取り組みをしたかどうかや。そうすれば、その人の子孫にまで釣りの技術は伝えられていく。雄ちゃんは、この三段階目の取り組みをやっているんや。これのどこが幸せでないといえる」
退院を翌日に控えた金曜日、病室に訪問者があった。幾分腰が曲がった老爺で、どう見ても年上だ。
「久しぶりだな。細川」
声を聴いて、ひらめくものがあった。
「もしかして、佐藤伍長殿ですか」
「いや、病人なのだからそのままそのまま」
歳は、六つほど上だったから米寿は越えているだろう。
「お久しぶりです。お元気そうで」
「釜山での武装解除以来だから五一年ぶりか」
「わざわざ、見舞いに来ていただいたのですか」
「ああ。もちろん見舞いもあるが、借りていたものを返そうと思って」
と、ポケットから出したものは、麦島の最初の手帳だった。手に取って開くと、一ページ目に『陣中日誌』と大書してある。
「必ず返すといったろう」
佐藤伍長は、口の端に笑みを浮かべた。それからは、互いの身の上話だった。五〇年分だからなかなか尽きない。伍長は、引き揚げ後に身に着けた韓国語と中国語で漢方薬など輸出入をしていたという。今は経営を身内に譲って、悠々自適の生活なのだそうだ。しかし、かなりの高齢になっているにもかかわらず東京から長野まで一人でくるとは、その健康ぶりがうらやましかった。
(滋賀県文学際に投稿したものを改稿)
〈続く〉
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