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ある詩人のイディオレクト6

【上州の歌声】

 時は流れ、仕事も定年となった。ありがたいことに童謡は歌い継がれていて、あちこちから講演などを依頼される。

 昭和六一年一一月三日、東部鉄道の藪塚駅に着いた。地元の有志から中央公民館一〇周年記念の講演を依頼されたのだ。

 このまちを去ったのは四六年も前のことだった。建物は変わり、勤めていた近江屋(岡崎商店)も二〇年ほど前に店を閉じていたが、町の空気は、あの時のままだった。一五歳でここに来て、戦争でやむなく去ったときは二六歳。

 改札を出ると、遠くに赤城山が望めた。しばらく歩くと、自転車で注文を取りに行った路地、一斗樽をリアカーに積んで運んだ道など懐かしい風景が細川を迎えた。

 講演の開始までは、少し時間があった。秋晴れの上州を歩くと、ふと見覚えのある町名が目に入った。当時、あちこちに配達していたので土地勘はある。どこで見た地名かと思うと、年賀状をやり取りしていた定形氏の家の近所だと気が付いた。うろ覚えの記憶をもとにしばらく彷徨うと、門扉に「定形雄吉」と掲げた一軒家があった。少し逡巡したが、チャイムを押す。しばらくすると、女性の声が対応した。

「すみません。細川というものです。ずいぶん昔、雄吉さんにお世話になったものなのですが」

「細川……。もしかして、細川雄太郎さんですか」

 すぐに玄関の扉があけられ、応接に通された。

 しばらくするとお茶をもって、四〇代の女性が現れた。雄吉氏の娘で、江美と名乗る。今日は母の入院の道具を取りに実家に帰ってきているのだという。母というのは、定形氏の妻だ。

「父は、四年前に亡くなりました。長く教職に携わり、定年の後は小さな音楽教室を開いて広く子供たちにその楽しさ教えていたんです」

 そうだ。丁度年賀状のやり取りがなくなったのはそのくらいの時期だった。結局、出征の後は顔を合わすことはなかった。江美さんは、「見てください」と笑顔で部屋の隅を指さした。

 指の先には本棚があり、ハトロン紙がかけられた書籍が並べられていた。続けて、
「父は酔うといつも、あの細川雄太郎に音楽を教えたのは俺だ、と言っていましたが、小学校の教員だった父が教えたわけがないと思っていたんです」
という。

「実は、私は小学校高等科を卒業して、滋賀で奉公に出た後、その出店である藪塚の岡崎商店に丁稚として勤めていたんですよ」

 本棚の前に移動しながら娘さんへと話し続けた。几帳面に並べられたハトロン紙の中身は、『童謡詩人』だった。それ以外にも、童謡の同人誌や書籍がきれいに並べられている。手に取ると、中には、鉛筆で書き込みがしてあった。

「その味噌工場の隣の空き家に定形さん夫婦が引っ越してこられたんです。私はまだ小僧の時分でした。味噌の工場では、大豆を蒸した後の残り湯を入れて風呂にするんです。雄吉さんは『雄どん、風呂もらえるか』とよく借りに来られたものでした。そうした縁で、ご自宅に寄せていただくことも多くなりました。その頃雄吉さんは童謡と唱歌に曲をつけておられたので、そうした本をたくさんお借りしたんです。ですから、私が童謡と出会った、作詞の道に入ったきっかけはお父さんだったんですよ」

「そうだったんですか。学校の先生と生徒という関わりじゃなかったんですね」

 驚いた表情ながら、腑に落ちたようだった。もう少し時間があれば奥さんにお会いしたいところだったが、娘さんから聞く病状だと、それもかなわないようだった。考えると、あのころ私は一八歳。今から五四年も前のことだ。

「この本は、父がずいぶん大切にしていました。空襲で焼失しないために、田舎に一時疎開させていたほどです」

 言い終えて、江美さんはふと気づいたかのように「少しお待ちください」と、二階へ上がった。数分して降りてきた彼女の手には、小さな風呂敷包が握られていた。机の上で包みをほどくと、中には、古ぼけたハーモニカが鎮座しており、外の明かりを小さく反射していた。

「父が、生前、作曲に使っていたものです。形見といっては何ですが、もらってやってくれませんか」

「私は作曲をしませんが、自身の出発点を常に確認するために頂戴します」
と丁寧に受け取った。

 時刻は講演まで一時間を切っていたので、丁寧に礼をいい、定方邸を後にした。中央公民館までの道のりは、昔、丁稚だったころの感覚が導いてくれた。

 一時間後、公民館開館一〇周年の式典が行われた後、「わらべうたと共に」の演題で壇上に上がった。二〇〇人の収容人数は八割がたといった入りで、皆、熱心に聞き耳を立てていた。

 講演は何度もしているので、慣れているはずだったが、久方ぶりに周りに飛び交う上州弁に加え、これまでの景色、横堀先生を定方氏に紹介してもらったこと、当時の丁稚仲間たち……。

 ぐるぐると頭の中を、当時の情景が駆け巡った。すると、右目から熱いものが一粒零れ落ちた。言葉が止まってしまう。先を続けなければならない。そう思えば思うほど、涙があふれ出た。

 しばらく壇上で立ち尽くしていると、会場の隅から「あの子はたあれ」の歌声が聞こえた。年配でこの歌が、この藪塚で生まれたことを知っている人なのだろう。一人の声は、二人、三人と合唱になった。やがて、会場を包む声となり、細川も一緒にのどを震わせた。

――あの子はたあれ 誰でしょね――

 ポケットの中で、先ほどもらったハーモニカが手に触れた。そうだ。この地は、空っ風の寒さとは対照的に、人の心は温かかった。戦争がなく、藪塚で過ごしていたらどうなっていただろうか。それでも、仕事の傍ら詩作を続けていたのではないかと思えた。会場の声はさらに音量を上げた。

(滋賀県文学際に投稿したものを改稿)

                            〈続く〉

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竹内宇瑠栖
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