【第10話 小さな剣士】
------…チチュン
設定したアラームより少し早く、小鳥のさえずりで彼女は目を覚ました。
まだ覚醒しきっていない脳と身体をゆっくりと新しい朝に溶け込ませ、少女が与えられるにしては少し広過ぎる自室の床を踏み、お気に入りの藍色のカーテンを開ける。
抜けるような快晴…陽の光が一瞬、彼女を訝しい表情へと変化させるが、すぐに眼は慣れて普段通りの様相を取り戻す。
自室のドアノブを廻し、家族と朝食を囲むために彼女はリビングへと向かう。
「おはよう。お父さん、お母さん」
リビングには、新聞を広げ湯飲み茶碗で茶を飲む父と、台所で朝食の準備をする母の姿があった。
「おはよう」
「あら、今日は早いのね。おはよう」
「全国大会が近いからかな…気になって眠りが浅いのかも」
「うむ。その気概は立派だ。しかし武道とは、心と技と体が一つになって初めてその真価を発揮する。戦の日に備えてしっかり自分を休ませるのも重要なことだぞ。もう少し早く寝てみたらどうだ」
「えぇ、そうするわ。ありがとうお父さん」
「さゆちゃんは結構ナイーブなところがあるから、お母さん心配だわ」
「大丈夫よ、お母さん。都大会のときはもっと緊張してたのよ。去年決勝で負けたあの娘が、今年も決勝の対戦相手だったから…」
「あー、あの大きな娘ねぇ」
「あの娘はな、我々の流派と大昔から対立する、西東京で最強と言われる流派の師範の娘。道場の男連中でも歯がたたんらしい」
「よくそんな娘に勝てたわね、すごいわさゆちゃん」
「うん…」
彼女の名は、瀬戸 小百合------。
父は、先祖代々続く剣道の流派《瀬戸流》の師範であり、一人娘の小百合はその後継者として期待されている。
幼い頃より武道の英才教育を施され、一昨年の春に剣道の全国大会常連校への推薦入学を果たして以来、都レベルの各大会では優勝、悪くても準優勝を果たした。
そして全国レベルでも二度、四強まで登り詰めた実績を持つ実力者だ。
そんな輝かしい栄光を持つ小百合だが、一つのある大きな悩みを持っていた…。
------武道家、剣道家として明らかに《身体が小さい》のだ。
父の厳しい指導により、技術レベルを高く評されるようになった彼女が、試合で負けるときは決まって鍔迫り合いでの力負けなどの《筋肉量》の差や、技の打ち合いにおける《リーチ》の差によるものである。
各種格闘技のように階級分けが存在しない剣道という競技においても、体格の差は結果に確実に影響を与える。
父は「真に剣の道を極めれば、実力差を生む要因として、身体の大きさはほとんど影響しなくなる」などと言っていたが、それは現在高校生である小百合には、まだ当てはまらないことだ。
都大会におけるライバルや、全国の強豪は皆、高い技術に加え強く大きな身体を持っていた。
しかし小百合は、通常の同年代の女子と比べても明らかに華奢で背も小さい。スピードや技の精度で圧倒し切れない強者と当たるとどうしても苦戦を強いられ、ときに結果として敗北を喫することとなってしまうのだ。
この先天的な要素の差が、小百合を悩ませ苦しめている。
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数日後、小百合が出場する剣道全国大会はその当日を迎えた。
小百合はトーナメント表を自宅で散々確認していた。一回戦の相手は山形の代表剣士だ。
過去の大会で当たったことはなかったが、全国大会へと駒を進めた手練。一切の油断をすることなく小百合は立ち会った。
しかし、いざ試合が始まると持ち前のスピードと手数で相手を圧倒する。
そして小百合は気合一閃、相手の面を打ち抜いた。「一本」の宣告と共に小百合は二回戦へと進むことを確定させる。
小百合と共に剣道部に所属し、応援に来てくれている家族、同級生や後輩達からわぁっと歓声があがった。
「小百合ちゃん!やったね!」
「うん、ありがとう」
小百合は駆け寄ってきた仲間たちから祝福され言葉を返すが、心の中では、その遥か先を思案していた。
このまま勝ち進めば、トーナメントの準々決勝で当たるであろう宿敵…静岡の代表剣士、守屋 舞------。
《鬼神》の異名で呼ばれ、国内最強と謳われる剣士だ。
なぜなら、鬼神は前回の大会で優勝している。いや、前回だけではない。小百合と同学年でありながら既に三度の全国大会優勝経験を持つ国内随一の使い手である。
一七五センチメートルという、高校生女子の中でもかなりの巨躯を誇り、その威圧感と打撃の重さで敵の行動を制限するかのように試合を展開するその様は、鬼神の異名で恐れられることに一切の疑念も抱かせない。
小百合の一回戦が始まるより前に、鬼神は、自身の一回戦を "消化していた" 。
表情が伺いにくい剣道の防具ごしでも舞の相手が萎縮してしまっているのが、試合を見ている人間全員に伝わるほど、一方的な試合だったようだ。
「相変わらずね…舞」------小百合は呟いた。
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小百合は、全国大会にあっても冷静に、そして順調に勝ち上がった。
苦しめられる場面が無かったわけではないが、それでも決まり手は全てが《一本》である。
辿り着いた、全国八強の枠。
いよいよ、鬼神との試合が迫る。
「今日こそは、アナタを倒すわ…舞!」
試合直前、控え室で瞑想をしていた小百合は、最後に、かっと眼を開けてこの言葉を発した。
そこでふと鏡を見やると、自分の顔が狂気に満ちた殺人鬼のように見えた。
鋭くにらむ眼光、口元は片方だけが吊り上がり、顎を僅かに上方へ傾けて他者を見下すような角度で佇む自分…
「あ…マズいわ。悪い癖が…」------慌てて表情を取り繕い、小百合は控え室を後にして試合に向かった。
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全国大会の準々決勝ともなれば、観客もかなりの人数になる。
小百合は、大歓声の中でその準々決勝の舞台へと歩を進めた。
そして、時を同じくして真反対の入場口から鬼神が姿を現した。
その姿、威風堂々…------
小百合と鬼神は、防具の隙間から覗く眼と眼を合わせ、激しい火花を散らした。
小百合は敵を見上げ、鬼神は敵を見下ろす形となったが、小百合を強敵と認める鬼神には微塵の油断も隙も無い。
------二人の日本を代表する剣士は、試合開始と共に咆哮し、初手から激しく剣を交えた。
実力伯仲…という表現が似合いの試合展開。
小百合は手応えを感じ、自身の技を繰り出す速度を上げる。
徐々に鬼神が防戦気味となり、この場にいる誰もが「前大会覇者の敗北」を予感し始めた。
その刹那------
鬼神は、無理矢理鍔迫り合いの態勢に持ち込んだ。
技のラッシュの最中に、間隙をついて鍔迫り合いに持ち込むなど…と、そのとき小百合の背中に戦慄のような悪寒が走る。
重い…動けない…
鬼神は、その力で小百合の動きを止めた。
そして、今まで何度もこの状況から敗北している小百合の動揺と逡巡を、見逃さなかった。
一瞬で間合いを取り、流れるような動作で小百合の胴を横に薙いだ。
「一本!」------無慈悲な宣告…
小百合は呆然としながらも、面下の瞼の裏に熱くこみ上げるものを押し留めるのに必死だった…
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正直、あの後どうやって家に帰ってきたのかは、あまり覚えていない。
私は、負けた。
また、巨躯を誇る剣士に押し負け、動揺し…
ダメだ、涙が止まらない…
しかも、私にはもう一つ後悔ができてしまった。
言い放ってしまったのだ。
言ってはいけないことを…部屋に慰めの言葉をかけに来てくれた、母に対して。
いつも私を心配し、応援し、誰よりも愛してくれている母に対し私は…
「------お母さんが小さいからよ…私はお母さんの娘だから、こんな小さい身体に産まれたんだわ!」
「ごめんね…ごめんねさゆちゃん…」そう言いながら私と同じ華奢な背中を向けて部屋を後にした母は、小さくその肩を震わせていた。
激しい自己嫌悪、嗚咽と共に泣き崩れ酷い有様の私は、何時間に及んだかわからないくらい枕を濡らした。
やがて、肉体的・精神的披露が限界を越えたのか、身体が強制的に脳を睡眠へと導いた。
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翌朝、目を覚ました私は泣き過ぎて腫れ上がった目元を無理にこすりながら、未だ前日の悪夢のような出来事を想起して膝を抱えていた。
強くなりたい。
母に謝りたい。
この二つの想いが交錯して、頭の中を支配していたから…私はこのとき、自身に起きた変化を感じ取ることが出来なかった。
------ピン…ポーン
何者かによって、我が家の呼び出しボタンが押された。
けれど、今の私には関係無い…
そう思って再び俯くと、程なくしてコンコンッと今度は私の部屋がノックされた。
ビクッと体を震わせ、恐る恐る「…はい」と返事を返す。
「さゆちゃん…?お客さんよ」------母の声だ。
私はすぐに立ち上がり、ドアノブを廻して「お母さん、昨日は酷いこと言ってごめんなさい。私、お母さんにはずっと感謝してるの…負けたのは私のせいなのに…」
用件を無視してまくし立てる私に対して、母は穏やかに微笑み、そして。
「いいのよさゆちゃん。お母さんの方こそ、さゆちゃんが悩んでることにもっと親身になれば良かった。ごめんね」
すると、気付かなかったがすぐ後ろに立っていた父が「これ、客人を待たせるでない」と言ったことで我に返り「あ、ごめんなさい。お客さんって…誰かしら」と両親に尋ねる。
「玄関に行ってみればわかる。これを持って行きなさい」
含みを持たせた父の言葉と共に差し出されたのは、鍵だった。
この鍵は、我が家に隣接された瀬戸流道場の扉の鍵…何故それを今渡されたか不思議に思いながら玄関口へ向かうと意外な来客がそこに立っていた。
「よォ、さゆっち」
「…れ、麗花!?」
昨日私が敗北を喫した、鬼神・守屋 舞と、同等の体格を持つその女性の名は、白鳥 麗花------。
都大会において、常に私と優勝争いをしている永遠の好敵手…しかしその彼女が何故今ここに…
「昨日は残念だったな、さゆっち」
「いえ…麗花は準々決勝勝ったのよね」
東京都の全国大会への出場枠は二つ。
故に都大会の決勝戦まで進んだ私と麗花は、その勝敗に関わらず全国大会へと駒を進めていた。
麗花は全国大会のトーナメントにおいて私と反対側のブロックで、準々決勝を勝ち進み、次は準決勝。
つまり、私を越え全国四強の枠の中に入っていた。
「まぁこっちのブロックには鬼神も和泉もさゆっちもいねェーかんな。クジ運が良かったんよ。それより!」
「そ、それより?」
「さゆっち随分へこんでるらしいじゃねーか!都大会でアタイに勝った剣士がそんなんじゃいけん!」
「もぅ、誰に聞いたのよ」
「さゆっちの部活の仲間はアタイともダチなんだ、皆心配してっぞ」
「そう…よね。あまりへこんでもいられないわね」
私は麗花の勢いで、先ほどまでの苦しみを緩和してもらえている気がして自然と笑顔で受け答えができた。
「さゆっち。剣の悔しさは、剣で取り返せよ」
「え?それって…」
「アタイと、勝負だっち!」
「えぇー?!だってアナタ今日の午後準決勝でしょう?しかも、勝ったら決勝まで…」
「ハッハッハ、いいウォーミングアップだっち」
「呆れた…麗花ってばいつも無茶苦茶なんだから」
「ニシシ、さゆっちそれは褒め言葉だゼ」
私は麗花と道場に向かった。
父がこの道場の鍵を私に渡した理由を悟るも、何故父がこの展開を読んでいたのかは今もわからない。
麗花は今日、全国大会の準決勝を控えている。そしてそこで勝利すれば、恐らく準決勝を勝ち上がってくるであろう舞と決勝で剣を交えることにもなる。
集合時間には間に合うのか、身体を痛めたらどうするのか、という想いが私の頭をよぎる。
しかし当の麗花はと言うと、私の心配をよそにさくっと準備を終えて竹刀を振っている。
麗花は一度言い出したことは曲げない頑固な一面がある。そこがまた彼女の魅力でもあるのだが。
私も覚悟を決め、準備を整え麗花に声をかけた。
「麗花!始めましょ」
「オゥ、やろうぜさゆっち!」
本来、二人にそれ以上の言葉は不要だった。しかし、もう一つ私にはかけねばならない言葉がある。
「ありがとう…麗花!」
瞬間、私と麗花は竹刀をぶつからせた。
全国大会の準決勝・決勝という自身の晴れ舞台に少なからず悪影響を及ぼすはずの、この立会い…
麗花は心から私を心配して、ここに来てくれている。
その想いに報いるためにも、ここで手を抜くわけにはいかない。全力でぶつかって、私が自分をしっかり取り戻さないと、麗花に申し訳が立たないというもの。
そんな思案も、徐々に消え行くほどに感覚が加速していく。
今…私は自分でもどの技を打ち込んでいるのか、理解できなくなってきている。
ただ真っ直ぐ、眼の前の好敵手に剣を…
「さゆっち…!なんだその力…!」
「え…?」
直後…麗花は道場の壁に激突し勢いが止まるまで吹き飛んでいた。
「これって…一体…」
「イチチ…さゆっち、昨日は手加減でもしてたんか?いや、それ以前も……こんな力があって、いくら鬼神相手でも押し負けるとは思えないんだけんど…」
麗花は背中を抑えながら立ち上がり、そんな台詞を口にした。
「私、どうしたのかしら…こんな感覚、今まで無かったわ…っていうか!麗花…大丈夫?!」
私は過去に経験したことのない出来事に戸惑いながら、好敵手に駆け寄りその身を案じた------
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