失敗する自由
いい題名である。題名とはスキーのジャンプ台のようなもので、ノーマルヒルかラージヒルか、ある程度の飛距離を、飛ぶ前からあらかた語るようなところがある。
語る前に、高が知れるのだ。
言い換えれば、解決策ではなく、何を問うかの方が大事だよ、とよく言われるところで、もっと言い換えれば、マッキンゼー派ならイシューであり、BCG派なら論点が大切という話になる。
途端につまらなくなった。ジャンプ台が良くても、ジャンパーの腕や技術が足らねば遠くへは飛べない。どうも、テストジャンパーまさまさです。
***
というわけで(どういうわけかはさておき)えらい人たちが再三再四訴えていることを総合してみると、大体以下になる。
①問いが大事
②行動が大事
残るは全て、行動を起こすための精神論と、生産性を高める方法論になる。つまり②のプロセスも、概ね以下でまとめられるので、その範疇に収まる。
仮説、実験、学習。
曰く、問いに対して、予めこうじゃないかと見立てること(仮説)と、その見立てに応じて試行錯誤すること(実験)と、その結果に学び、次に活かすこと(学習)である。
行動には、この仮説立てから、学習して戻ってくるまでの小さなサイクルと、時々元の問い自体にそもそも論で立ち戻ってくる大きなサイクルがあり、このサイクルをえいえいと(営々と)回すのが肝となる。例えるなら、地球の自転と公転のように。
あまねく実用書の類も、全て「方法」を扱うので、その提案が、上記のどこを切り取ったり合わせた議論として位置付けられるか次第であり、そこでの前向きさを保つ精神論の糖衣をフレーバーとして楽しめばよい。
てなわけで色んな人たちがあれやこれや言う時にも、ざっくり大別すれば、上記の行動量が大事(心理バリアの除去をしよう)系と、行動の質が大事(生産性を高めよう)系のバリエーションに着地する。
イントロを終えて、主題に入ります。
失敗する自由は「どこ」にあるか
さて、タイトルに戻り、改めてこの自由の舞台を考えたい。
上記の中で、失敗、に類するものが出てくるのは、実験パートの試行錯誤に見つかるが、このトライアンドエラー上の過ちは、学習するための機会でもあり、本質的には失敗とは言えない。
残る可能性としては、
A. 問いが違う
のみだろうか。と、ここまで言って名著『失敗の本質』を読んでないことが気にかかる。そこに書いてあるんじゃないかなと思いつつ、もう少し、上記のプロセスが機能しないケースを考えてみると、
B. 学習しない
もありえそうだ。
このうち、より致命的なのは、軌道修正が起こらないB.と考える。というわけで(どういうわけかはさておき)『失敗の本質』を読んだ人がいたら、こっそりコメントなどで教えてほしい。
本旨と無縁ながら、上のA.とB.が揃うところを、絶望と呼ぼう。
B.の手前の段階の「行動しない」もあるなと気がついたが、その校正はまたの機会に譲りつつ、一旦このまま進みます。
さてここで、自由とは表現の幅である、と仮定したい。
さすれば、B. の「学習しない」のも一つの表現だが、そのバリエーションは限定的である。学習しない方向よりは、やはり、A.の「問いを間違える」ところに、無限のバリエーションが、表現の幅が、自由の余地があるように感じられる。
無邪気たるべし
自由を謳歌する。いい言葉である。となれば「失敗する自由」も謳歌したいところではなかろうか。
ということで(どういうことかはさておき)「問いを間違う」のが基本方針になる。正しい問いに向かわない。目的地を大胆に間違える。大きく一歩を踏み出し間違える。そんなおおらかな態度こそが、失敗する自由には求められるのだ。
大胆に間違えた問いを立てられるかどうか。それこそが「失敗する自由」を堪能出来るかどうかの分かれ道になる。ついつい妥当そうな落とし所を考えてしまうのは社会人の性であろう。そんなことでは失敗できない。
とは言え、大胆さが必要なんて言えば、思い切りの良さとか、豊かな発想力などとなりがちで萎縮してしまいそうだけれど、案外必要なのは、無邪気さではなかろうか。無邪気に自分なりに考えてみる。それで十分に勇敢であり、大胆であり、いい感じに間違えそうな予感がある。その意気である。
そして多分、とっても希望的観測にも依るけれど、その問いが十分に大胆であればあるほど、「本当に」失敗になるかどうかは、やってみないとわからないのではないか。
なるべく無邪気に問うてゆきたい。
(以上)
補遺
写真は、神社の境内にある高木にハシゴを立てかけ剪定中のご様子であり、大成功です。
よくぞここに辿り着き、最後までお読み下さいました。 またどこかでお目にかかれますように。