Masato | まさまさ牛歩の旅

旅する気持ちと、少数派への肩入れと、爽やかなる生き恥をモットーに。 否応のない、人生の彩り。

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マガジン

  • これからの旅

    いつでも今から始まる、新しい旅の物語。 その産声が聞こえたところ。

  • 一日一恥

    • 186本

    人生と言う名の旅の恥を書き捨てていこうという試み。リレー形式にて、あんなこと、こんなこと。

  • 幕間(一人っ子編集室)

    このnoteの運営方針をあーでもないこーでもないやるための思考の整理用途マガジーン。いわゆる一人編集室。

  • 追憶(読める世界一周)

    このけぶる気配に漂うムードを、あの子にも教えてあげたい。世界一周の旅、淡麗なる記録。

  • リトルまさまさのこなくそ日記(仮)

    小さきゆえの素直さで、憂いも惑いも喜びも 週1更新(毎週水曜日)

最近の記事

  • 固定された記事

まあ頑張っていかなあかんな、言うてますけれども

旅が思い出に変わる頃(前座)ある人を考えるときに思うことが、出会い頭の「第一印象」にぐっと籠もることがあると言うのなら、ここに書きだした一段落も、これから重ねる文章をそのまま自然と代表し、あなたの中の僕のイメージになるのだろう。 まあ書き直せるんやけど。 はじめての人にやさしくて、おひさしぶりの人にも懐かしく、いつもの人にも飽きのこない、そんな素敵なイントロダクションを作りたい。 こんな人に、こんなものを(お知らせ)世にイケてるコンテンツは腐るほどあるけれど、ふ

    • 通い路

      心が亡くなると書いて、忙しいという。 多分僕は今そういう意味でいうところの、忙しいのだろうと思う。それは多忙を極めているということではない。まるで異なる。時間はある。周りの人にも恵まれている。とてもそうだと思う。 何かに文句があるわけではないし、自分で決めたこと。 だから足らないものなんてのは、特にないのだけれど、どこかで無理に押し留めたものが行き場を失ってゆくのを、まるで、擦り傷から出た血が乾いてゆくのをじっと見ないフリをしながら、実は凝視している。 *** 何ら

      • 草コインと私

        最近、長らく文章を書いてなかった筆力低下を感じつつも、言ってもこれしかないしなぁと、リハビリ短文をしたためます。 大きなネットワークの網目は、あまねく個人を国家の一部に紐づけて、あるところで起こる変化やエネルギーは、増幅され、減衰されて、その大小を異ねながらも、小さな網目の各点のそれぞれにそれなりの影響を伝えます。 *** フィルターバブルと認知バイアスのダブルパンチで、生成AIが巷を席巻しているように見える今年、2023年。 「いざ新たな時代の幕開け」と、例えば資本

        • 年のはじめはオフロード

          新しい年とともに訪れる休暇は、まとまった休み(OFF)にあって、心身の整理整頓が進みます。 情緒的にも、あるいは実働的にも、人生の折り返しのようなものがあったなら、その破線は、恐らくこの2~3年の前後にうっかり通り越して しまっていたような気がする。それも、希望的観測で。 もちろん、人生をチャプターに分けて考える必要もないし、1年の最後に、今年は何点だったかなどもまたどうでもよいことである。過去も未来も概念に過ぎず、そこに本質的な意味はなく、ただ戯れに、少しのまとまった時

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          29本
        • リトルまさまさのこなくそ日記(仮)
          15本
        • パスポート(おいしい旅の作り方)
          2本

        記事

          蘇生 2022

          年末にかこつけて、なんとか滑り込むように、一葉の手紙のようなものを差し込みたい。 ゆく年くる年を見ながら、目の前にふわりと漂う想いの欠片をひらって紡ぎたいと思う。 今年を、例えば漢字一文字だとか、何かしらの端的な言葉でまとめることは横着であるし、細やかな感情に対する配慮に欠いたことかもしれないとは思うけれど、やはりそれでも今年は、喪失の年であった。 今仮に、少しでも感じられる安息は、平衡状態は、絶えざる喪失の流れの中にある束の間の凪に過ぎないのだと。僕たちは、生まれてか

          【幕間⑨】誰も見ていないかのように踊れ

          どうも、お久しぶりです、幕間です。 まずは、この書き物のジャンルを設けている役割を、書いている本人がうる覚えなので、思い出しながらご紹介します。 僕にとって文章は、思索の詩作施策です(「しさく」を3つ並べてみました。)ゆえに書いてる時は、その内容に少なからず酔っているため、「上手に書けた」と思った時ほど、酔っぱらいのポエムが出来上がります。 それを若干冷ややかに、でも結局は情に厚く「全くしょうががねぇな」みたいな下町情緒あふれたるおやっさんの目線が必要です。 それが幕

          【幕間⑨】誰も見ていないかのように踊れ

          いつまでもフラフラして、えらいわぁ

          帰りましたね。 さて、では安心して始めましょう。何かを言い出すに、逃げ口上が枕など、下卑た精神と揶揄されない気もしないでもないが、仕方がない。言い訳がモチーフだもの。ようこそ。もう音楽は鳴っているのだ。ドープなビーツが。ズンチャッチャと。 *** さて、とは言え、少し奥まったややこしいことを言いたくなった時はいつでも、僕は「長田」という半架空の読者に伝わる程度に噛み砕き、そいつの質問に答えるようにして、書くことにしているわけだけれど、まぁまずは、こう言ってしまおう。

          いつまでもフラフラして、えらいわぁ

          とある地元のとある夜

          この夏、地元の奈良に帰省した。そのほんの一幕、とある地元のとある夜の出来事をしたためたい。地元に漂う〝おぼろげな幸せ〟みたいなものが伝えられたらなと思う。扉絵はルノワール。幸福の画家。 僕の地元の奈良県生駒市は、隣接する大阪への往来が盛んなエリアで、おおよそベッドタウンと呼んで差し支えないだろう、人口10数万人の地方都市である。そんな街に住む一部の若者は、大阪方面から最寄り駅に終電間際で帰ってきては、少し寝静まった街を、黙々と家路を辿ることになる。そんな道すがら、奇しくも反

          とある地元のとある夜

          僕らは素直に、貪欲に

          5月15日 24時33分 大阪発東京行きの寝台列車で書き始める。今この瞬間の気持ちを、残したいが為である。 寝不足な朝だった。 急いで身支度をして、家を飛び出し、駅の途中のクリーニング屋に立ち寄った。ネクタイを受け取るためだった。 土曜の午前になぜなのか。 クリーニングは3人待ちで、店内をウロウロしながら待ちに待って、ついに渡されると同時に、わさっと掴んだネクタイはバトンのよう。駅まで残り数百メートルを疾走し、なんとかかんとか間に合って、大阪駅のコンビニで祝儀袋と筆ペン

          僕らは素直に、貪欲に

          ゆく年くる年チャレンジ2021

          2021年、最後の1本を書こうと思っていたが、師走に振り乱されて、ついぞこの瞬間まで書けなかった。 本当は残り3本の予定だったのだけれど、師走に持て囃されて、以下同文。 ということで、こうなったらもう、紅白が終わったたった今から始まった「ゆく年くる年」の間に、ひとつ思うところを述べて締めとしよう。 いや、しかし。思うところが、ないなぁ。 大体のところは、適材適所問題なのでは「パシっとハマることなんてないで」 そんなコメントを、高校時代のサッカー部の同期から聞いた。7

          ゆく年くる年チャレンジ2021

          好きなバス会社はありますか?

          さて今回はあまり構えずラフに、「濃飛バス」を褒めたいと思う。乱文乱筆お目溢しあれ。それでは行きましょう。 おっと一点、その前に。まずは今回の主役をざっくりご説明致しましょう。 「濃飛バス」とは、その名の通り、主に美濃・飛騨地方を主戦場とするバス会社の名であり、岐阜県高山市を本丸として、西へ東への長距離バスと、足元達者な路線バスを巡らせる、この地域の庶民の足である。 つまりは、僕の足でもあった。 この1年半ほど、大変お世話になっている。 それでは改めて。 ローテクに残

          好きなバス会社はありますか?

          今したくないことを、まだしないこと

          人と人のかかわるところ、相性の良し悪しが語られて、そこでは「価値観の違い」なんて話がよく出てくる。でも、価値観が「違う」こと自体は、人が違う以上は当然なので、この相性の良し悪しに影響するのは、「譲れない価値観のトレードオフ」があるかどうかであって、それが見つかると問題こそ解決しないけど、スッキリする。そんなお話。 *** 去年、「私的聞きかじり子育て論」でもイケてる話をしてくれた友人が、昔僕に以下のように話してたのを思い出す。 それは、こういうことである。 好きなこと

          今したくないことを、まだしないこと

          トナカイいらず

          サンタ「いやぁ、効率がいい、効率が。こんな簡単なんやったら、もっと前からやってたら良かったなぁ」 (トナカイ、カリカリと床をヒヅメ的なものでかく) サンタ「災い転じて何とやら。ほら、また行った。これは圧倒的や。これはトナカイいらず!ワシはサンタ界のエリートやなー。ヨーホッホ~!」 トナカイ「いやいやいや。ヨーホッホちゃうがな。さっきから黙って聞いてたら何やお前は。サンタがこんな大事な日に家でサボってたらあかんがな。子どもたちが待ってるんやど」 サンタ「おや、トナカイ。

          つぎはどんな物語を

          一見ランダムでも、その場面、場面で感じて動いたことは必ず紛れるから、短いスパンでは見えない大きな流れや、物語が底流することを、以前よりは少しだけ信じられるようになった。 *** “語るに足る人生”であること そんな風に自分に期待した筋書きは、なんと単純で、短絡的なパターン認識に当てはめただけの、没個性的で、複雑でもリアリティもない、“取るに足らない”人生だったろうか。 ――偶然しか、意味を持ち得ない 人生にずっと訪れ続けている、「短命な悲喜こもごもの偶然」を抱きしめ

          つぎはどんな物語を

          時間が積もったがゆえの何かしら

          晩秋である。 栄枯盛衰で言えば、衰えの季節か。夏の思い出を抱きしめながら、ちらつく冬の寒さと枯れに怯えつつ、現在の惰性の豊かさにすがる頃。 例えば、 より年長の人間が、例えばその「雑多な過去」を「人生経験」と読み替え、今ひとつ値打ちのはっきりしない「経年により蓄積された何か」を、カウントでき(かつ覆ることない)単純な年数で評価しながら、その裏で、こっそりと延命のための煙幕を張る、そんな茶番がある。 過去時点でのいち出来事や、時間の長さで。或いは「誰々を知ってる」という

          時間が積もったがゆえの何かしら

          影響が消える時

          もうすぐ閉店するお店について、「なくなる気がしないんですよね」と語る彼の話を聞いたのが、2日前の文化の日のこと。 そんな今日は、実はもう2年半ほども前に閉店した別のお店について、「大変!あの店がなくなってる!」と別の彼女が知らせてくれた。 このふたつの事柄から、「何をもって人はお店を〝ある〟と感じるのか」という問いを持ち、恐らくは「影響」ではないか、とひとりごちた。 彼女にとって、近くを通りかかったりする度に、あ、〇〇〇に行こうかな、と過ごしていた(が叶わなかった)時間