オムライスしかり
<味わう>ことと、<惜しむ>ことは似ている。
往々にして、何かをよく味わえるのは、そこに“喪失の予感”が漂う時ではなかろうか。
オムライスしかり。
もうずっとはない。そんな「一度きり」あるいは「一口、一口」に対して、きちんと惜しむことが出来て、それを仕方ないと諦めることが出来た時に、本当の意味できちんと味わうことも出来るのかもしれない。
喪失の予感はだんだんと濃くなる。それに応じて、自分と対象との関係が揺れる。疑いをかけられた嘘付き同様、心音の揺れは、最初に大きくビクッと震え、それから少しづつ収まってゆく。
驚きや否定のような鋭い感情が、受容とさみしさへと角を落としてゆけば、あとは残る時間をきちんと感じようと努める。それより他に出来ることも、重要なこともないような気がする。
去りゆくものをじっと眺めながら、その関係を最後まで味わう。対象の喪失は、関係の喪失であり、関係の喪失は、自分の喪失でもある。きちんと最後まで惜しみ、味わえたなら、ほっと一息つく。喪失の予感や揺れは消える。
それから先は。
対象の不在や、関係の不在による心のきしみが残る。沈思に耽りつつ、時間をかけて意味の探索と、細部の忘却にも任せた心的な回復と、残ったものでの精神の再構築に向かうのではないか。
この探索とは、かつて自分の外にきちんと見えていたそのものではなく、自分の内に溶けてしまった後の余韻や影響のようなものになるのだろう。
オムライスしかり。
***
ところで、このオムライスは、比喩である。ご存知の通り。
(忘れてばかりだが)この人生においても同じこと。「人生自体の喪失」の暗示を受ける時は、雑多な思い煩いが、些細で取るに足らないことに感じられるようなことは、ある。
だからもし人生をよく味わうことを思うなれば、それは、その一回性について思いを馳せ、諦観とともに受け入れ、惜しむことにあるのかもしれない。
「今しかできないことは何だろうか?」
そんな問いにグッとくるものを感じていたのは、そこにいつも「一度きり」が担保されて、喪失と味わいのムードが同居していたからなのだろう。
今後なるべく事にあたっては、気持ち多めに惜しんで、気持ち早めに惜しんでゆきたい。「これもいつかはなくなるよな、、、」と。
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「一日一恥」しかり
私事/内輪ネタになるが、このnoteは、オールナイトニッポンよろしく、曜日毎のメンバー交代制で運営してきた、共同運営マガジンこと「一日一恥」に収めるものです。
これまでメンバー間でひとつひとつ文章と、バトンを紡ぎ、ついに187本(!)を数える。よくやってこれたなと思いつつ、ひとつの気がかりは、「早く行くなら一人で行け、遠くに行くならみんなで行け」の旗を振ってたハズが、気がつけば一人になってそこそこ経つことだろうか。
かつても触れたが、いい感じのムードがあって、楽しくやれていたような時にこそ、その活動の終わり時と、終わり方について上手に対話を重ねられてなかったのが、個人的な反省であった。何の根拠もなしに、まだ(今じゃなくても)いいかなぁと思っていた。
変化は突然訪れる(ように感じる)
というわけで、本稿を含めて残り10本にしようと思う。残りの10本はきちんと惜しみながら認めたい。週1本のペースを人知れず守り、2021年中の全(約)200本をもって、これまでのご愛顧に感謝しつつ、シーズン1の区切りとしたい。
(以上)