面白いものを、面白いうちに。
面白いとか、楽しいとはどういうことか。
この問いは、一生もののテーマに感じる。これまでに何度となくすれ違った気がするけれど、さほど真面目に向き合った覚えがない。どことなしか避けている気さえする。というのも、それを真面目に考えだすと急に「面白くないムード」が漂う感じがするのだ。
それは『Don't think. Feel!』に通じるような、あらゆる思考様式から離れたところにのみ、面白さや楽しさが生まれるといった「遊び」のセオリーがあるからなのだろうか。
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とすると「遊び」とは何だろう。諸説ありそうなので、ここは遊びの大家、ホイジンガさんに聞いてみましょう。
(前略)すべての遊びは、まず第一に、何にもまして一つの自由な行動である。命令されてする遊び、そんなものはもう遊びではない。(中略)(第二に)遊びは「日常の」あるいは「本来の」生ではない。むしろ遊びはそれに固有の傾向によって、日常生活から、ある一時的な活動の領域へと踏み出してゆくものである。(中略)遊びは日常生活から、その場と持続時間とによって区別される。完結性と限定性が遊びの第三の特徴を形作る。それは定められた時間、空間の限定内で「プレイ」されて、そのなかで終わる。遊びそのもののなかに固有の経過があり、特有の意味が含まれている。(後略)
ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』
なるほど。さすがホイジンガ。遊びってのは自由な行動で、日常からの拡張があって、その場ならではのプロセスと意味があると…。
うん…。そうじゃないんだ。"そういうこと"が聞きたいんじゃないんだよ、ホイジンガ。僕が知りたいのは、より楽しむために、より面白がるためにはどうしたら?であり、言い換えれば、その遊びをよりよく「プレイ」するとは、どういうことなのかである。
多分、この分厚い本の後ろの方に書かれているのかもしれないけれど、まだそこまで読めてないので、僭越ながら私、マサジンガの仮説を述べさせて頂きます。
遊びにとって大事なこと、それは。
「絶妙の間とタイミングで、その瞬間に最もいいものを取り出し、煮るなり焼くなり炙るなりして、新しいムードを作って座を賑やかすこと」
これがクリエイティブな遊びの極意ではなかろうか、と。
ビジネスと遊び
少々視点を変えまして。
ビジネスとは、顧客視点のマーケティングが肝である。世の中の特定の人が持つ、何かしらの(アンメット)ニーズに対し、どんなモノやサービスやコンテンツを、どのようなコンテクストに乗せて届けるのか。
そんな「価値提供のデザイン」が地主さんである。うまい設計がハマれば、新しい循環が発生して、物事がより大きく進展する。負ければひもじくて、勝つほどに楽しい世界。
他方で遊びは、どちらかといえば自己都合的で、自らが起点であり、終点でさえありえる。遊びに興じる当事者の直感とスキルに導かれた、最も上手い当意即妙の即興が、その場にパシッとハマる時に素晴らしい瞬間が訪れ、ハネる。勝ち負けはフレーバーであり、新鮮な学びや驚きが報酬の世界。
両者はあまり絡みがないように見えるが、この「ビジネス」と「遊び」の垣根は、今後ますます曖昧になってゆく流れにあるらしい。なぜなら、全てがfになっていくから。おや、fとは何ですか。
御名答、ファンビジネスである。
著書を読んでいないままに適当に言ってしまった。fとは何だったのだろうか。コメントなどで教えて下さると嬉しいです。ヒントだけでも。
この話はどこに行くのかな?
うっかり筆の勢いで、最近しとしと考えているファンビジネスを、つらつら述べていく流れになりそうなので、ぐっとタイトル方向に戻します。
遊びには「その瞬間に最もいい」素材を扱う必要がある。
八百屋さんが「今日はこれがいいよ!」
というのと同様に、文章も一種の言葉遊びと捉えたなら、自分にとって、今これが一番いいよ、面白いよ、考えさせられるよという旬のトピックを書くのが自然であり、よい文章になるかはわからないけど、より楽しいものにはなる気がする。(少なくとも書き手として)
この瞬間には確かにあるけど、時が過ぎれば多分熱を失う。そんな刻一刻と失われることの生々しさが、その瞬間に、ひいては人生に、エネルギーを与えているような気がしませんか。卒業が近づく頃の喧騒。楽しいとは儚いことの裏返しでもあったのだろうか。
そこをなんとかする勇気
てなわけで、今まさに友人と一緒に「クリエイティブな遊びの仕事」を始めんがなとしているところですが、ひとつ課題が見つかったところです。
その課題の名は「信頼不足」
上記のとおり、僕にとっての遊びは、自分と相手と、その他入手可能なものの中から「最もいいもの」を当意即妙に組み合わせたブリコラージュであり(言ってみたかったブリコラージュ)受動的な気晴らしというよりは、主体的な知的労働である。真剣に遊ぶ気概と没入が、別の友人の言葉を借りると「大人の本気」が求められる。難しいけど楽しい。そんな世界である。
つまりは、遊びだからって、いい加減ってわけじゃないのだよ、てなことが言いたいのだ。切に訴えたい。
何のアピールか!話が見えないぞ!と、野次が飛びそうなので話を進めますと、具体的には、取り組みを進めていく上で重要な関係者から、あまりいい印象を持たれてなさそうという話である。
卑近なお話になって参りました
と言うわけで、打ち合わせをしようということになった。
「初対面の7割には嫌われる」と普段から口角泡を飛ばして予防線を張り、本当に嫌われた時のショックを緩和するワクチン二度打ちの僕でも、実際に好感を持たれていない人の目前に姿を晒し、かつ、その相手からも一応の承認と、願わくば助力も得んがなとする打ち合わせは、緊張する。
会社ならまだ言い訳の余地がある(かもしれない)けど、個人事業なので、こいつは(まだまだ足らない)信頼商売だなぁと、これもいいチャレンジと前向きに捉えつつビクついております。
ワーストシナリオで、嫌われている前提で考える。
嫌いな人が嫌いな人を嫌いなままで、「それでもいいか」と思って貰えるような、そんなコミュニケーションや関係性とはどんなカタチだろうか。
…難問です!
とまぁこんな話も、一旦の決着を見る次の打ち合わせの後なら、もうこの感情は「どちらに転んでも」姿を消していることになるし、ともすれば書くほどの熱量も無くなりそうな気がするので、今のこの瞬間にだけ、こもる温度でしたためてみました。ぼくすごい不安、と。
以上「一日一恥」より、183本目
過ぎた失敗をポジティブに。さながら鼻をこすって「へへっ…!」ってな感じの爽やかな恥の書き捨て、がテーマではありましたが、現在進行系の恥のプロセスも含めて書いてみる。そんな実験。
長文のお付き合い。どうもありがとうございました。
(以上)
よくぞここに辿り着き、最後までお読み下さいました。 またどこかでお目にかかれますように。