目標完全に沈黙…から覚めました!
深い眠りから覚めたら、もう少し素直に生きたいよ
とレミオロメンが歌ったのは2006年のこと。それが今や遥か15年前で、それからは流れる季節の過ぎるまま。一月は行く、二月は逃げるなど。ふと日の早さを感じる「いつものやつ」もちょうど半分が過ぎた頃。
まるで冬眠していたかのように、昨年の冬に差し掛かったあたりでこのnoteの更新もピタと止まり、実に3ヶ月ぶり。今や、感傷とも呆然とも言えない気分で、ああかなこうかなと言葉を探しつつ、再び書き始めます。
雪深い奥飛騨からのそのそ降りて、都会に佇む二月のとある日。そんな今日は天気が良いなと太陽の下。
「ええと、ぼくはだれだっけ?」
どうも、お久しぶりです。まさまさです。ご無沙汰しています。明けましておめでとうございます!
それでも自分がやらねば1mmたりとも動かぬことを、1nmでも動かしてゆきたいよ
「変な例えかもしれませんが、最近は子供の泣いている声が聞こえるような気がするんです。今頂いているオファーはとてもありがたい話で、身に余る光栄でもあるのですが、極端な話、僕がどうするこうするに関わらずとも、今の事業はカタチにはなるんだろうなと感じています。一方でこっちのは、僕が育てない限りは育たない。もし今僕が、この声を聞かなかったことにしたら、それが本当に聞こえなくなった時には、もう最初からいなかったことになってしまうかもしれない…。」
時は2018年。人生でも数少ない会食的な経験を、新宿の老舗のお寿司屋さんでした時のこと。
今後の契約に関して、是非継続して力を貸して欲しいと言って下さったクライアントに、「今はもっと注力したいことがあるので」と返せば良いところを、上記のようなしんどめの例えでもって、辞退した。
ここでの「子供の泣き声」とは、自分なりの事業なりサービスなり、新しいナニカを作りたいという気持ちそのものだったけれど、でもそれはまだ立ち上がるには、あまりに曖昧で、何かしたいけど、それが何かはわからないというような有様だったから、まずはそれを象(かたど)るための方法論へと僕は撤退した。
それが文章だった。言葉でもって、自分の感じるところと、考えるところをつないで、見えるようにする。それがコツコツと積み重なるうちに、自ずと進むべき道も明らかになり、かつ、人を巻き込める影響力さえも、持ちうる可能性があるのではなかろうか。そう期待した。
そしてそれが止まるまで
仕込みに仕込んだ。
まずは、文章を書き始める前から「プロセス自体を楽しめるように」という設計思想を持ち込んだ。だから、もし結果に囚われて焦りを覚えたり、スピード不足を感じたとしても、あくまでも淡々と。継続性でカバーしようと、自ら「牛歩牛歩」と言い聞かせた。いいえ、それは仕様ですと。
もう一つ。
「早く行きたければ、一人で行け。遠くまで行きたければ、みんなで行け」そんな原住民的な教えも受けつつ、一人ではやらないことにした。勇気を出して仲間を募り、ピア・プレッシャーも利用して、この「文章を書くこと」を順繰りめぐりのバトンリレーでやろうと画策した。一人あたりの負荷を下げつつ、内輪での励ましや称賛やフィードバックも合わせて、継続性を担保するのだ。
一旦はこれでよしと。あとは、テーマをどうしよう。
そこは、おっかなびっくりで引っ込み思案な自分のため「恥を書き捨てる」というコンセプトで「可憐で果敢なトライと、そこからの失敗や学び(恥)を、それぞれの色で日々つづってゆくもの」とした。これは正直に言って、僕自身の興味関心を謳った。
そんなこんなが、僕にとっての「書くこと自体」への姿勢だったり、この記事も含められている共同運営noteの「一日一恥」に込めたところだったが、後者のテーマに関しては、実際は甘々で、”恥を書く”とは言えども、自己表現自体が多少恥ずいから、まぁ内容は書きゃあ何でもOKぐらい、ハードルを下げて、とりあえず始めよう、続けようと考えた。
出だしは好調にて。
新しいことをする、表現をするというムードが華を添え、熱量が籠もった。メンバー自体に多少の増減はあったものの、いい感じで様々な話が展開し、コラボレーションの妙だとか、大げさに言えばメディアとしても伸びている実感を覚えた季節もあって、書くのが大変な時期も、それなりに楽しく過ごしつつ、バトンを回した。
そんな仲良くワイワイやれてるタイミングでこそ、それぞれにいずれ訪れる「抜け方」を整理しておきたいなとかも考えていたが、そのタイミングは、ついぞ訪れなかった。
***
優しい人は、静かに、でも不意に離れていくもので、だんだんとチーム内での熱量は下がり、僕はそれをきちんと感知することも、適切に対応することも出来なかった。
今思えば、「記事をなんと紹介して良いかわからない」とか、「仕事じゃないし」とか、「個人的な内容よりもっと人の役に立つ発信がしたい」みたいなコメントは、全て存続に関わる重大な課題として捉えるべきだった。
僕はそれをメンバー内での議題テーマにすることはあったにせよ、いっちょみんなで考えようとか、強制するもんじゃないから各自の出来る感じでよいかなどのナイーブな考えしか出せなかった。
物理的に集まるのが難しかったこともあるが、気づけばチームとしての機能は失われていて、思えば「チーム」という言葉を使うのも、僕だけだったのではないかと思う。
だんだんと更新は遅れがちに、書く人も限定されてきて、何となく声を挙げるのも憚られる遠慮が漂うLINEグループ。僕自身もだんだんと、そのムード自体に気圧されて、もうこのコミュニティは役割を終えたのかもしれない、みたいな後ろ向きな感覚を覚えたか否か、筆が止まった。
それと同時に、牛歩も止まった。
牛も止まるわい
一時期盛り上がった仲間内での遊びが、だんだん冷めて廃れた。
上の話を要約すれば、それだけことであった。
冷静に考えれば、「世界観もピンと来ず、かと言って実益もない」そんなもんをやっていきたい!と思う方が不自然というもので、両者を例証するか、少なくとも「進むべき道」を示せてこそのリーダーだったと思う。チャンチャラ足らなかった。少しでも一緒にやってくれて、ありがたかった。今回で足掛け1年半、165本目の記事となる。何だかんだで、一人では来れない遠くまでは来たけれど、元気なチームはもういない、と。
さて、これを一体どう捉えよう。
畢竟するに、
仕事を離れ、利害の異なる複数のメンバーと一緒に、一人では出来ないナニカを作るため、各自の性格や目的をすり合わせて、持続的に前へと進める。そんなチャレンジを積ませて貰った。(そしてこっそりミスった)
そんなところ。でも待った。それだけを言うのはフェアじゃなくて。
例えば、いつもなら「一月は行く」と溜め息交じりに振り返る一ヶ月が過ぎたとしても、今年なら希望に一歩近づいた一ヶ月でもある。曰く、ワクチンまでの距離。
同じように、うまくいかなかったことや、損なわれたものが気にかかる時にさえも、そこで獲得されたものもあるハズ。僕にも僕のVaccination。そんなホロ苦い経験も、後の免疫的なものだったと捉えることも出来ようか。
ていうか、こういう可憐な失敗をこそ書き捨てて、うまくいくまでのプロセスをこそ、楽しんで行ければよかったんじゃなかったっけ?
この学びと宿題を抱えて、また一歩踏み出せばよいではないか。
牛歩、牛歩で。
目標完全に沈黙…から覚めました!
今年もよろしくお願いします。
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大変長文となりました。
今年は雪の多い冬の奥飛騨の景色をご覧に入れつつ、お別れです。
(以上)
(追伸)
次回は今回触れられなかったアイコン変化について、ふわっとしたためようかと思います。乞うご期待あれ!
よくぞここに辿り着き、最後までお読み下さいました。 またどこかでお目にかかれますように。