オペラグラスでは戦えない
我が愛する「鳥貴族」が、5月30日に営業を再開したと聞きつけた。
まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで成長してきた「鳥貴族」も、今度のことでは、少し分が悪かろうと勝手ながら心配していたが、たしか、他の飲食チェーンより一歩か二歩か早いぐらいのタイミングで臨時休業に入ってたような…。というぐらいで「その後」のことは忘れて過ごしていた。
少し気になって、調べてみた。
他チェーンはどんな対応をしたんやっけなと。
(※注 内容には誤りがある可能性があります)
なるほど、そうか。君はそうやったか、と。業態やスタンスの差はあれど、誰よりも早く困難に動き、誰よりも長く息を止めた。
そんな風に見える。
この事実一点をもってしても、”たかが焼き鳥で世界を変えたい”などといううぬぼれにも一本芯が通って、否。串打ちが出来ていると思う。なんのこっちゃ。
ふと、思い出して自分の過去の記事を読む。
これは冴えてる。
が、誰に向けて書いているのだろう。
とりあえずこうして我が愛する「鳥貴族」が、ようやくその長いトンネルを抜けようとしていると言うならば、
我と来ても、また気のおけぬ人たちと、メガハイボールをしとどと飲んで、キャベツを馬のように貪り、ほろ酔い以上しゃっくり未満ぐらいの上機嫌で家路につける日を今か今かと楽しみに過ごそう。
ところ変わって奥飛騨
最寄りの「鳥貴族」を調べたら、38km離れた長野県松本市内にあるらしい。嬉しいが行けない。足がないもの。
というわけで最近は専ら、家で粛々とYoutubeを見ている。
真面目なやつである。
このチャンネルに至ったプロセスは、GW期間中にオレンジ色の分厚い一冊の本『シン・ニホン』を読んだところから始まった。
※補遺 『シン・ニホン』は、日本最高の頭脳である安宅さんが捧ぐ、国家百年の戦略指南書(サバイバルブック)である。その本筋は「データの利活用」が出来る(AI-readyな)体制づくりへ、官・民・個レベルでの果断なる変化を今スグに取るべきこと(そして、それが実現可能であること)を透徹したファクトと分析に基づき提言するものである。
かくのごとくすっかり、影響を受けた。そこからは素直に、、、
『シン・ニホン』を読む(スタート)
▶”データの力を解き放つ”方法論を学ぶ必要を感じる
▶ 遅蒔きながら「機械学習」を学び始めることにする
▶ ベースとなる数理的な復習の必要を感じる
▶ 堅いテキストとかではなく、もっとサクッとしてて、なんていうか難し過ぎないけど、本質的でもあるような、、、
▶ Youtube!!(今ココ)
こうなりました。ただいまヨビノリ。
そしてこのYoutubeチャンネルの感想を言うと、ものすごい満足している。これは革命です。
これまで以下のような記事を読んでも、ふーん、日本ったらダメじゃない。ぐらいに思っていたが、今ではこう思う。
「ほんまにあかんで!!」と。
何がどう違うのか?
個人的な感想として、以下の3点において、徹底的に学習効率に差がでる。
① 絶対に見える、聞こえる
② 見る側が学習速度をコントロール出来る。理解が足りない箇所は(何度でも)繰り返し学べる
③ 板書がいらない
①は、僕自身は中学以降ぐっと目が悪くなり、最初の1年はオペラグラスを片手に授業のノートを取っていたが、大変目が疲れた。目が悪いので、板書をする先生の手の動きを頼りに、書いている文字を類推しながらノートを取っていたこともあったが、少し気を許したら、もう黒板は見えなくなった。左目だけを引っ張りキツネみたいにして書いたりもした。消えてしまう前に板書をとることばかりが大事だった。
②は、要するに再生速度のことである。人が10の情報を聴く時、新しく学ぶことは10ではない。人によっても内容によっても異なるが、2-3程度のことも少なくない。
この重要度において粗密のある情報を、現実では100%の再生スピードでしか経験できないが、Youtubeなら150%で進めることも出来る。もし一度聞いてわからなかったら、その時だけ部分的に繰り返すことも出来る。何度でも。
③は、①でも触れたが、板書の内容はデータとして残る。消えない。なくならないんです!そう思ったら、理解することだけを考えて聴くことが出来る。再生スピードを上げれば、緩慢にもならず、眠くもなりづらい。
感動的だった。ショックですらあった。全然違うやんか、、と。(*)
***
「今の若い世代は、知の高速道路に乗っている」などと羽生善治が比喩的に言ってた意味が、身を持って体感出来た。これでは勝負にならないと。
身も心も洗い替えて、”新しい変化”をとらないといけない。愛着が少し胸を締め付けても、オペラグラスでは戦えない。
もっと早く知れたら良かったかもしれないが、もっと遅く知っていたこともあったかもしれない。今わかってよかったと思う。
否が応でも時代は変わる。変化を楽しみ、サバイブしたい。
根が真面目なところが出てしまった。
(以上)
補遺
(*)
「複数人が同時刻に集まり同じ内容を同じスピードで同じだけ学ぶ」という寺子屋方式は、物理的に一人の教師がより多くの生徒を育てる方法論として有効だったと思うが、一部の前提条件は現在において見直されるべきというのが主旨であり、全部Youtubeの方がいいよね!と言いたいわけではない。
例えば、自らテキストと向き合い、うんうん唸って帳面に書き付け考えて、あっ!とようやく理解する価値や、そのプロセス自体を経たことでようやく血肉下する感覚。或いは、複数人で同時間的にグループワーク的に取り組むことによる気付きなどもあるハズなので、理想的には「学び」の種類を棲み分けて、個人差も許容される、ハイブリッド的なやり方がいいんだと思う。
そして教師において恐怖なのは、この流れはパワーバランスが教える側から教わる側に移ることを意味していて、「誰から学ぶか」は教わる側によって選択される日が来ることではないだろうか。僕が今ひらり浮遊して、高校の授業に舞い戻れるのなら、世界史の授業は「ハラリ」から聞きたい。