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【一日一恥】Live in the Moment?

時々なんだけれど、ひらめきの言葉を、ひとつふたつ、思いつく。

それらの言葉が、羅針盤で、やじろべえで、クラピカのダウジングチェーンのつもりで。

そのひらめきの言葉を、周りの目に見えるものにぶつけて、距離を測っては、その効き目をおろおろと眺めている。

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できるだけ客観的に、なるべく遠くから眺めれば、かのごとくの者(僕)は、同じような場所に留まり、似たようなことを繰り返しては、「何でじゃー!」と叫びがちに見える。

そんな自分がかわいいのか。自分を変えるのが億劫なのか。そんな“芸風“が手放せないのか。「なぜ?」を問いかける内省は、自己批判モードになりやすいそうな。

それでも、と。奥歯を噛んで唾を飲み込み、ひとつぐらいええこともないかと考えたら、これは全て僕自身が、過去の中で選択し選んだ未来だということに気が付いた。

このことは僕を勇気づける。

卑近な例で言うなれば、26歳で社会に出てから(遅め)もうすぐ約10年間の過程で、僕の賃金カーブは断続的に減り続けているのだけれど、それは「僕が望んだ」未来を生きた結果なのだ。なんだかんだで、自分に従った。

それだけは確かで、つくづく納得がゆく。

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シンプルに言えば、目に見える結果は鈍いが、文句はない。そんなところ。自分なりに練習してるけど、まだスタメンに定着出来ないなぁ。それぐらいのこと。

だからむしろ、目的(道中を楽しむこと)はこの瞬間にも叶えられていて、この姿勢自体が、僕が勝手にハマっていることだ。そういう”芸風”だ。今、自分の中で「鳴っているもの」に従うこと。

自分の頭で、ああかなこうかなとぼんやり考える。そして、時々思いついたひらめきを小さく試しては、出てきたモンを検証して、なるほど、なるほど言いつつ、距離を測る。ひらめきと実験の繰り返し。

あとはこのやり方の精度と速度と運の問題で、いい感じでやれたなら、どこかにはたどり着くのだろう。

速くて精度がよければ、早く着き、遅くて精度が悪ければ、ヒマがかかる。それだけのこと。それらは最終的には、速いか遅いかだけの差で、いずれにしても、いつかそれも終わって思い出に変わる。

それをなんと呼ぶかはわからないが、そのプロセスで僕は何かを得て、何かを捨てる。その経験の総体を、◯◯と呼ぶことも出来ようか。
(※◯◯には、好きな言葉を入れて下さい)

変化は世の常、人の常だから、僕が今の僕でいられなくなる時も、そのうちに来るのだろう。その時には、性格や価値観の一部は更新されて、少しだけ違った顔をして、また違う何かを目指しているに違いない。

だから今は、このぼんやりとした深夜3時半。どもれる口での、曖昧模糊な時間を抱きしめていたいと思う。ずっとお世話になりました。どうぞ残る時間を、もう少し、楽しんで過ごしましょうな。

現在進行形の思い出を生きる。

Live in the Moment?
否、Live in the Memory.

(以上)

写真はDispoで撮った奥飛騨での1枚。雪桜と呼んでいます。

よくぞここに辿り着き、最後までお読み下さいました。 またどこかでお目にかかれますように。