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【一日一恥】注意力散漫、春爛漫

漢文のような題名でご機嫌よう。

咲き誇る春の日々にあるのに、妙なせわしさに翻弄されて注意力が持たないよ、という些末なお話。箸休め回です。

我が愛する文筆タイムも木曜日から押し流され、1日遅れでいざ公開。

それでは、心労の入場です

まずは音の入場です。

久しぶりに岐阜県は奥飛騨から、奈良の実家に戻って10日ほどが経った。静謐(せいひつ)さは消え失せ、日常に大音量が現れた。

この単純な音量が、デシベルがつらい。

ここのところ耳が遠くなってきたかと思われる親父は頑強なるテレビっ子で、記憶にある限り25年ぐらい前からずっとテレビを見ているのだが、ここ最近の音量はなかなかのパンチ力がある。

少し前まではNHK縛りだったハズだが、最近はその縛りも超越したか民放も見る模様。そして民放と言えば、CM。コマーシャル。

このCMがいかつい。

大音量のCMを聞いたことはあるだろうか。画面から浴びせられる音の弾丸は、土砂降りのごとく逃げ場なく、鼓膜に突き刺さり、脳を揺さぶり、胸がドキドキする。心と体に良くない。オススメしない。親父が油断した隙に、こっそり微妙に音量を下げ、おや、と気付かれ音量が引き上げられるという不毛な繰り返しが毎晩起こる。

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続いて、人の入場です。

前述の親父はテレビを離れると、それなりにAttentionの欲しい or 必要な人である。対話より自分語り派なので、それを聞くでもなく聞く。1分前ぐらいから見えている目的地へと、返し縫いのように話が進む。

時折、話の筋自体が神隠しにあったかのように消えてしまい、そんな時にはそこに居合わせただけの関係ない子が担ぎ上げられる。そんな風に、散文的なエピソードが散らかるので、そこに統一的な意味を求めて一生懸命聞いていると焦れてしまう。そもそも、8割ぐらいは以前に聞いた話の焼き増しである。とりあえず、ふんふんと聞くでもなく聞く。しかし時々当たり回もある。トリッキーな親父である。

規則正しく19時前に帰宅し24時に就寝するまで、この壊れたラジオ(親父)と爆音テレビがタッグを組む。この時間は本を読もうとしても中身が入っていかない。皿洗いなどが最も有効な活動となる。

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続いて、家事(Chore)がやって参りました。

実家にて姉貴の留守を守る今、皿洗い・掃除・洗濯・ゴミ出し等に、めちゃ簡単な晩飯の準備が僕の守備範囲である。ひとつひとつは大したことはないものの、自分のことだけを自分のタイミングでやってた気ままな田舎暮らしと比べると、気持ち的には一定の存在感がある。

料理は凝ったものは全く出来ないので、とりあえず最低米だけは炊いている。35歳にして実家で主夫見習い(花婿修行)とはコレいかに。こんな簡単なレベルとボリュームですら結構な心労であることを思えば、世の子育て&仕事掛け持ちママなどは只者でないと思う。

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そして仕事の入場です。

実家で主夫見習いとは言え、フリーランスのお仕事がある。どうしたことかここんとこslackが元気だ。「今が勝負時」とばかり、明日まで、明後日まで、月曜日の開始時点までなどのリクエストが入る。22時を過ぎても@付きのコメントが飛んでくる。

夜型なので問題ないとは言え、契約形態でも確認しよかしらなどと思うも、それもそれで面倒でやめてしまう。その調整コストを支払うより、何も考えずやってしまった方が楽だという勘定と感情が、僕を夜中に表計算ソフトに向かわせる。変な感じで言ってしまった。

最終的に「出来る範囲で」という名のベストエフォート型で、自分ではなく設定された〆切を、朝日を眺めながらお届けして眠る。

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日々その他押し寄せる、諸々の雑事も見逃せない。

様々な期待と要求を、効率に振り切って捌こう、捌こうとしているうちに、あっという間に1週間単位で日々が過ぎてゆく。

いやいや。

ワシの時間わい!

(長いフリであった)

以前、手帳に書いていた言葉がある。

自分への支払いを最初にする

ふと読み返した時には、意味がわからなかったけど、最近とみに思い出す。さらに、もう一つ「壺に石を詰める話」もセットで思い出す。

この「壺に石を詰める話」を雑にまとめると、壺には石、砂利、砂、水の順に詰めると、本当の限界の限界まで隙間なく埋め尽くすことが出来るが、もし石を入れようとしたら、それは一番最初に入れないと入らない。重要なもの、チャンクの大きなものは初めの段階で入れないと、後から差し込むスペースはないよ、というお話。

「自分への支払いを最初にする」も同様の意であって、それが今の自分には問われている気がするのだ。

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忙しい時ほど、人の期待に応えようとする"前に"、まずは自分自身を満たす必要がある。それが長い目で見て、人の期待に応え続けることをも可能にするだろうから。

忙しさに心を奪われて、誰かの期待や要求に、キャパの限界まで振り絞り、応え続けて余力なく、自分がおざなりになって、ついには忘れ、自分の人生への意欲やその操縦桿を手放してしまってはイケない。多分それは、望まれてもいないことでもある。

そんな実家での小忙しい日々に、頼れる助っ人が登場した。

君の名はルンバ

持つべきものは、友である。

特に使ってないルンバを譲ってくれる友である。どうやら彼の子供がしっちゃかめっちゃか床にものを撒き散らすため、ルンバがタンスの肥やしになっているとのことで、譲り受けた。

初めてのルンバ。心に春の風が吹いた。

(以上)

※写真は近鉄電車から撮った東大阪の夕暮れのDispo

よくぞここに辿り着き、最後までお読み下さいました。 またどこかでお目にかかれますように。