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今したくないことを、まだしないこと

僕が「せっつき」に引きれを起こしている時に、相手は「宙ぶらりん」に耐えきれなくなっている。

人と人のかかわるところ、相性の良し悪しが語られて、そこでは「価値観の違い」なんて話がよく出てくる。でも、価値観が「違う」こと自体は、人が違う以上は当然なので、この相性の良し悪しに影響するのは、「譲れない価値観のトレードオフ」があるかどうかであって、それが見つかると問題こそ解決しないけど、スッキリする。そんなお話。

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去年、「私的聞きかじり子育て論」でもイケてる話をしてくれた友人が、昔僕に以下のように話してたのを思い出す。

「好きなことが一致してないのは、全く問題ないし、むしろポジティブでもあるけど、嫌いなことが一致してないと難しくなるよね」

それは、こういうことである。

好きなことが一致してない時、その違いは機会である。自分の世界を広げたり、新たな楽しみが増える可能性がある。他方、嫌いなことが一致してない時には、その違いは脅威になる。

例えば、清潔感とか、金銭感覚とか、自分にとって「こういうのは嫌だな」と思うことが、相手にとっては全く平気で、そのラインをいつも越えてくるとなると、経験を共にするのが難しくなる。

具体例としては、こんなことがあるだろうか。

  • 毎日お風呂に入らないのは不潔 vs. 汗をかいてない日は不要

  • ランチに1500円は高すぎ vs. いい経験に金の糸目はつけない

そんな話だったと思う。

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この価値観のラインナップは、様々にあり得よう。

例えば、上記のような清潔感や、金銭感覚の他にも、味覚、笑いのツボ、親類との距離、言葉遣い、他者への眼差し、主体性や客観性、美意識といったグラデーションのあるものたちが思い浮かぶ。

その他にも、よりハッキリと偏りの出る、健康、ヴィーガン、喫煙といった志向/嗜好性だったり、特定のイデオロギーや政治思想、宗教信仰に至るまで、こりゃ沢山ありますな。

このラインナップそれぞれの「これは嫌!」を話すのも面白そうだけれど、まずは置いておく。ちなみに僕は、極端なもの = 面白い、の物差しだけで笑いを捉えてそうな人は嫌である。置いておく。

さて相性の話に戻ると、このような様々にありえる価値観のどこらへんに、「譲れない!」があるかは人それぞれで、あとはもう当事者次第、めぐり合わせ、組み合わせの問題になりそうなので、こちらもここらで置いておく。

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今回書き留めておきたいのは、僕の新たな「これは嫌」の発見である。

それを今、うやうやしく高らかにリストに追加し、共有するところであります。えー、それでは発表しましょう。


〝そろそろ感〟です! 壇上へどうぞ!


そして冒頭の例が、その顕著な瞬間であった。

僕が「せっつき」に引きれを起こしている時に、相手は「宙ぶらりん」に耐えきれなくなっている。

以下、簡単に説明したい。

お互いの「いい人生」が喧嘩しないように

上記を観察すると、どうも時間が噛み合っていない。

「こうしてくれ、ああしてくれ」と相手がせっつきだす時、大抵において、僕はまだその気分ではなく、全くの時期尚早であるが、逆に、せっつく相手は、もう時間切れのロスタイムに突入している。時にそんなことが起こる。

僕にとって、まだ全然そろそろ感がないのに、相手はもうそろそろ感もクライマックス。さて、どうしたものか。

「相手に合わせて、動けばいいじゃん」と言うだろうか。それが簡単に譲れるのであれば「そうですね」で試合終了で、何も問題にはならない。

まずここが、どう譲れないかを説明したい。

※注 あなたが常識的でバランス感の良い方であれば、「くるぞ!屁理屈がくるぞ!」と思って読んで頂くとよいかもしれない

僕は自分の「自然な感情の発露」を大事にしたいと思いがちなゆえに、自分の〝気分に沿う〟ことにも素直である。言い換えると、したくないことは、したくない、のだ。カレーの口でなければ、カレーは食べたくない。これと全く同じ話である。

それが何故かと言うと、「怖いから」である。

したくないことを、無理に、何かに合わせてしてるうちに、自分のしたいことをしたいと思うことが、自然でなくなってしまわないか。外部に合わせることが「自然」になってしまったら、自らの〝感じる芽〟が育つ余地が失われて、まず最初に主体性が挫け、ついには感情自体も死んでしまわないか。それを恐れる。

だからその気分でないなら「(少なくともまだ)したくない」。自然に湧き上がる感情をなくしては、自分なりの感受性を失ってしまっては、過ごす時間に(ひいては人生に)意味がなくなる。人生を損なう。それが怖い。

こういう態度は、とある人をして「自分のことが大事すぎるんじゃないの。私は自分なんて大したことないと思ってるから、他の人にも合わせられる」と揶揄されたところでもある。全くカレーの口でなくても、カレーを食べられる人もいるのだろう。すごいなぁ。食べたくないなぁ。

カレーぐらい別にええがな!

と思われるかもしれないが、これは、あくまで例えであって、他であれば、「関係性が出来てないのに、過大なリクエストをされる」等に代表されるように、つまり「まだ自分の心が整ってないうちから、何かしらの行動を要求される」そんな全般を差している。

僕の場合、どうしてもそういう無理が要求されてしまうなぁ、と感じたら、先の自己防衛意識が、距離感の調整を訴えるアラートを作動させるシステムになっている。多分。

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次に、逆の立場から考えてみる。

すると「待つ」のも、しんどいことがわかる。そして、その理由も多分に、「恐れ」にあるのではないかしら、と邪推する。

とても気になることがある。そのことが、自分の中で未解決であることが、いつも脳裏を占めている。

時は刻一刻と経過する。気になることもそのままに、だんだん時間は減ってゆく。すると、焦りが生まれて、精神的な余裕がなくなる。精神的な余裕が失われると、楽しむことができなくなってしまう。今の時間をよい気分で過ごせなくなってしまう。せっかくの時間が、ひいては人生が損なわれる。それが怖い。

だから早くしたい。早く結果を知って安心したい。せっかくの時間が楽しめず、無駄になるリスクから守りたい。あぁ、それなのに相手は動きがない。もうそろそろいい加減じゃないかと思うのに。早くして欲しいなぁ。どうしてやらないのかなぁ。正直しんどいで、しかし。

こういうことなんじゃないかと想像する。

「相手に合わせて、待てばいいじゃん」と思われるだろうか。

僕はそうは思わない。自分のしたくないことはしたくないように、相手がしたくないこともやはり、して欲しいと思わないからである。

こうして見事、これはただ合ってないのだな、という着地が決まる。

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さて、この〝そろそろ感〟に対するズレが、今回新たに発見した、新種の「価値観のトレードオフ」でありました。発表おしまい。

静かに、両手を耳をやり、聴衆の反応を伺う。ファン・ロマン・リケルメのお馴染みのゴールパフォーマンスである。

目を閉じて、耳を澄ます。
喝采は、まだか。

したくないことを、しないこと。てか。

<以上>


よくぞここに辿り着き、最後までお読み下さいました。 またどこかでお目にかかれますように。