【一日一恥】総員休憩します

何かを書く。頼まれもせずに何かを表現して、それをわざわざ人目につくところに晒すなど、およそ自意識過剰のケダモノ、おのれ可愛さが過ぎるよ、そんな風に思っていたこともある。それ日記でいいんちゃうの?笑 と。

でも、そこにはナニカがある感覚があった。
心のここ掘れワンワン。

書くことには昔から興味があった

僕の根は割とクソ真面目である。多分。真面目な人が何をするかと言うのは割と決まったパターンがあって、僕の場合は人生の探求である。いかに生きるか、はいつでも思考の玉座にあった。

よく生きることはどういうことか。
それはどうやって学ぶのか、それは出会いを通じてか。
出会いはどうやって学ぶのか、それは付き合いを通じてか。
付き合いはどうやって学ぶのか、それはコミュニケーションを通じてか。
コミュニケーションはどうか、それは思考と感情と言語と表現を通じて。
思考と感情と言語と表現はどうか、それは感じること、書くことを通じて。

かくして、よく生きるためには、よく感じて、よく書くことが大事なのだろうと思った。

息を止められないように、僕は自分の思考を止められない。どうしたらよくなるのだろうか。そういった類のことを考えるのは、ネズミが柱を齧るのと同じで、癖のようなものだ。

でもそれが嫌ってわけでもない。実利も伴う。学びへの意志は、快楽の予感と追求である。僕は人生が上手になりたいのだ。そうすれば、今よりも道中を楽しめるだろうから。

ところで、ここまでの流れは、多分に後付けである。今の感覚に身を預け、書きながら考えていたら、こんなもんが出てきた、というに過ぎない。

もし、いろんなものを剥ぎ取れば、昔うまく書けたら楽しかった、そんな原体験ひとつの話なのかもしれない。

***

自分の中でまだ生まれてもないものがナニカの兆しを、どこかでなにかしらと繋がっているようなサインを発して、うまくそれをすくい取れたとき、その発見には新鮮な驚きがあって、そこには純粋なる喜びが伴った。

沢山の宝物が、眠っているような気がした。自分の身の回りに起きる出来事が、これまでの出会いの蓄積である記憶と組み合わさり、無限の複雑さの中に可能性が広がって、その広大な森の中を、思考はあてどなくさまよい、ひとつ発見、また発見。心のココ掘れワンワン。声を拾う。

新しいつながりが見つかることは、さながら、人生における出会いという雑多にも過ぎるものの中から、いいものが惹かれあい恋をするのを見届けるに近く、その結果、自分と自分の環境に対して、つまるところ僕の人生そのものに対して、意味と味わいが増していくような感じがした。僕は感覚と記憶のあいだに旅をして、そこで壁に落書きをしたり、目を閉じて歩いたり、女の子に声を掛けてみたり、いろんなことが出来る気がした。

かくして、書くことは僕にとって重要な発見のプロセスであり、それをもってすれば、多少のツラい経験にも違う角度から光があたったり、書くことで距離をもって見れば、現実をもう少しマシに捉えられたり、でもそれよりも、やっぱり単に楽しくて、そんなことを生業にできたらいいなと夢想したことも一度や二度ではない。いつからか、そんな風にして、今に至る。

書くことには昔から興味があった

要するに、この小見出しでしまいのことを長ったらしく書いただけのことだった。振り出しに戻ってきた。どんな風に僕の思考がめぐる(戻る)かを、もしかすると味あわせられた方もいるかもしれない。大丈夫でしょうか。話を進めます。

この興味───書くこと───に通じる、ひとつの具体的な足がかりが、編集・ライター養成講座という社会人講座だった。その門を叩いたのが、2018年の秋の暮れ。申し込み〆切期限の最終日だとかにメールを送った。

受講が始まって半年後、僕の鬼作であった人生初の卒業制作は、特に審査員のハートを打ち鳴らすこともなく、無事に卒業した。

それはそれ───として、人生は進む、それで終わり。おつかれおつかれ。と、そんな風にはしたくなかった。ここでナニカのきっかけを掴まないと余韻が消えてしまう。余韻が消えたらなかったことになってしまう。自分の踏み出した一歩を、つなぎとめるナニカ。

そこで、恥ずかしがりと照れ屋とええかっこしいが同居するという、自意識過剰の魔物を飼っていた僕は、卒業後のちょっとした飲み会の場に、高校生が告白するみたいに、今日言おう、今日を逃せば次はない。という覚悟で望んで、お酒のムードで魔物の目を盗み、”一緒に書きませんか”と誘った。

或いは一人でも、、、とは思ったけど、ナニカ違うと思っていた。この余韻のある場所から始まるものでないと。”ここで一緒に始めないとイケない”と感じていた。

それ以来、メンバーも減りつ増えつ現在の5名になり、ここまで来ました。ちょうどこれが「一日一恥」に収める135記事目である。

しばしお暇頂戴します

そしてこの度、チームで話した結論として、この「一日一恥」の更新を少しの期間、止めることにしました。

と書くと、内部瓦解か!解散か!と訝られるかもしれないが、さにあらず。戦略的撤退。違うな。夏休みである。恥を書きすぎた。嘘。まだまだ恥は書き足りないが、少し箸休め、恥休めをしようということになった。

実は、このチームで順番交代に書いている裏では、お互いに褒めたり称えたり雑談したりしている。この夏でもうすぐ1年になる。

おかげで僕は少し変わったと思う。メンバーからのコメントや、自分自身で書いたこと、それらで新しく発見したことが、見つけた言葉が楔となって、恐れは少しづつ遠のいた。少し麻痺したところもあるかもしれない。

今では「唯一の失敗があるとしたら、それは挑戦しないこと」だとか誰かがしたり顔で言ったとしても、素直に飲み干せてしまう。せやんな、と。以前では難しかったと思う。そうはおっしゃいましても、って。

ナニカにトライする。もし失敗して恥をかいたら記事になって、願ったり。もしそれがうまくいったら、叶ったり。というのは、現実的に過ぎるよ、という誹りもあるかもしれないけど、僕にとって厄介だった感情の番人の問題を、システマチックに解決するという、大げさに言えば、発明であったとも思っている。よかったらパクってやって下さい。

その発明を、発案の段階から、基本的には地味で真面目なコツコツとした継続を通じて、今の実感にまで辿り着けた理由は、やはり一人でやらなかったこと、が大きいと思う。

急いで行くなら、一人で行け。
遠くに行くなら、皆で行け。

よく言うたものです。そんなチームがあったことは、継続するために大きな支えであった。その幸せな事実を踏まえた上で、こう思う。

遠くを見よ。
遠くから見よ。

と。今すこしの恥休み、はそのためのものです。そして、当然ながら、特に自分の中で、筆舌に尽くしがたいところを、好き好んで書くきらいのある僕の文章は、まどろっこしくて、読んでいてもしんどいと思う。決してレベルの高いものでもない。そんな文章を読んでくれている人がいること。

これがタダの帳面に書き綴った日記だったなら、こんなに楽しくなかったと思う。僕は今、書くことを楽しめています。ありがとう。

というわけで、一旦少しの間、「一日一恥」としての更新は止まりますが、再開を楽しみにして下さい。またもっときっとうまくなって。アナタを楽しませてみせたい。

こんな歯の浮くセリフでも言えてしまう。一日一恥ならね。

なお、さりー、ゆきどっぐ、野口さん、あきしょーの個々人は、それぞれにそれぞれの内容で、この恥休め期間も、何かしらを書いてゆかれることもあらんかなと思うので、是非フォローしてみて下さい。僕もそのつもりです。

ちなみに、なんとこの4人中の3人が、僕は箸にも棒にもかからなかった、例の講座の優秀賞の受賞者達である。実はさりげなくみんなすごいのだ笑。

それではまたお目にかかりましょう。それまで!

(以上)

よくぞここに辿り着き、最後までお読み下さいました。 またどこかでお目にかかれますように。