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いずれ見つかるその日まで

自由をモットーに生きていたはずが、ふとそんな「自由であること」自体に縛られていることに気が付き、ハッとする。

自由でありたい、自由であらねば、自由じゃなければ人生じゃない、なんだかんだと視野狭窄。多分それは、手段と目的のなんとやら。

自然に「何かをやりたい、おもしろそう」と思えたことを、そのまま気兼ねなくやっちゃってるような、少年のピュアな好奇心だとか、Sense of wonderに導かれているのが、いつも本物な気がする。

忘れているぐらいがいいのだろう。大抵のことは。

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ところで僕はとても無名である。ご存知だろうか。ご存じないはずである。無名なのだから。

時は令和。共感や信用に基づく”応援経済”が、巷を賑やかす世になった。

今週は、知己からの知らせで、僕の生まれの奈良県の(ド)田舎に、素敵な「サウナホテル」を作るプロジェクトがあると聞き、少し支援した。

他者を上手に巻き込めば、一人では出来ないことが可能になる。人のつながりの中で、意味やストーリーが編みこまれたプロジェクトは推進力を持つ。

ほんと素敵だなと思う。

影響力がない人の遊び

ただその一方、自分の「やりたいこと」の旗を掲げ、ある程度に名も知れ、支援者・協力者も現れなんかして、そこに伴う期待を(嬉し恥ずかし)背負い込んでしまったなら、もうそう易易、その役割とポジショントークからは逃げられない。

「やりたいこと」への推進力の代わりに、多様(時に雑多)な人間関係による摩擦のケアとメンテナンスの手間も引き受ける必要が出てくる。

また、他者の行動変容を促すような影響力は大きな武器だけど、その影響を与えた先は、時にコントロール不能でもある。自分の言動が意図せぬ結果に繋がることもあるかもしれない。

言い換えれば、うっかり有名にもなってしまうと、難しくなることもある。それを無名のうちに期間限定で楽しもう、というエントリです。

ちょっと視点が気持ち悪いのはご愛嬌。それでは行きましょう。

好きな人やモノを好きだと遠慮なく言える

影響力がないからこそ、好きだと言えることもある。全然迷惑にならない。「秘密の隠れ家」に人が押し寄せたりしない。偏愛を叫びまくれる。問題ない。誰一人影響されないとは言わないが、誤差範囲。言いたい放題に言ってしまえる。僕は◯◯が好きですと。蚊の鳴くような声で。

いつどこで誰といても、いなくてもいい

誰かとの秘密の逢瀬を目撃されようが、それが秘密であることがバレない。誰もつぶやかないし、写真も撮られない。大丈夫。全く問題ない。北は北海道から南は沖縄まで、出歩き放題。会いたい人に会える。相手がいれば。

何の、もし相手がいないならそれもいい。孤独を抱きしめて眠れる。淋しさ侘しさで褥を濡らすのも、自分以外を巻き込んでしまっては、美しくない。影響力のないうちに堪能したい。

素直に生きられる(かもしれない)

いいものはいい。良くないものは良くない。自分の感性で捉えたそのまま、自然な感情の発露が出来る。忖度することもないし、不器用な失言によって誰かを意図せず傷つけることも少なくてすむ。言葉の扱いは大事だけれど、誤った先に大勢がいないのは、影響力のない人の特権的な環境である。

身の回りの物事に対して、いつも素直で本音のままあれるというのは、なかなか幸せなことだと思う。ただし最後、自分自身に嘘がある(本音に対して素直ではない)という場合はあるかもしれない。自戒を込めて。

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水曜日に行く予定だった、Perfumeのライブが当日で中止になった。

もしライブが開催されていたならば、それはツアーの最終日で千秋楽のハズだった。東京ドーム一杯のファンに、シビれを伴う体感を、「生きるエネルギー」をアーティストは届ける。

悔しくて、会場まで見に行った友人は、東京ドームの周辺で泣いているファンを沢山見て、一緒に泣きそうになったと言っていた。

かっこいいなと思う。サウナホテルもPerfumeも。

でも僕はひとまずこちら側。
当面は好きなものを好きと言って過ごす。

少しの焦がれは、忘れているようなフリをして。

(以上)

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Masato | まさまさ牛歩の旅
よくぞここに辿り着き、最後までお読み下さいました。 またどこかでお目にかかれますように。