【一日一恥】好きから始めて、不愉快は抱き合わせ、最後は心に麻酔を打つ
実家ではよく漫画を読んでいる。駅前のGEOのおかげである。
漫画はすごい。絵と文字が感情を沸き立てて、心臓に突き刺さるようだ。良さそうなものを、あれこれ読んでは、深夜に唸る日々を過ごしている。
『ドラゴン桜2』を読めば、受験当時の自分の打ち手の貧しさを思い出してうっと悲しい気持ちになり、『凪のお暇』を読めば、苦境でこそ創意工夫が光るのだと教えられ、『チ。』を読めば、生きるに値する人生とは何かと、問いかけられてるような気がする。
今は『3月のライオン』を読んでいる。
ルールと制約こそ、クリエイティブの友
上記の『凪のお暇』で、主人公が実家に戻り、色んな雑事と情念の柵(しがらみ)に取り込まれていく様子には、今の僕の状況とも、少しだけ似ているところを感じる。
そして、制約があるからこそ、よりクリエイティブに考える必要が高まり、結果的にそのチャンスも増えるのだと教えられた。
ルールと制約こそが、クリエイティブの友であり、腕の見せ所である。今回はそんな僕なりのクリエイティブを見せたい。
時間と空間と愛着と
具体的に言うと、僕が実家で感じる柵(しがらみ)とは、ひとつが「愛着」であり、もう一つが「生活時間と空間の制約」である。
この両者が掛け算されると、大変お手数がかかります。
これまでは24時間365日を、ある程度自分の好きに計画して使えていたが、今ではそれが難しい。一人暮らしではないから、自分以外の人間への顧慮というか、親父と姉のケアが必要になる(気がしている)ところである。
それは、入院中の姉の病院へ週2~3で発生する荷運びタスクであったり、毎晩何時までに帰宅して、親父と晩飯を一緒に食べる慣習だったりする。「他にやる人がいない」というシンプルな理由で、チリツモの家事や雑事の全般も付随する。
端的に言えば以前よりずっと、時間と空間に制約が生まれて、自分の時間を持ちづらくなったように感じる。
そこに前者の「愛着」が絡む。例えばもし「愛着」がなかったなら、食事は全て外食だとか、Uber Eatsを利用することも出来るだろう。
そうすれば、買い出しも要らないし、調理や洗い物の手間もなくなるし、飯自体もうまいかもしれない。でも、なるべくなら何か温かい手作りのものが望ましいかな、といった「愛着」や「コダワリ」が発生すると、その時間や空間の制約をより強く受けることにもなる。
つまりは、「愛着」による心理的な制約が掛け算されて、その「時間と空間の制約」が強化されるといったところである。
Uber Eatsは非対応エリアでした
というわけで、僕の今の課題は、斯くの如く「時間と空間」の制約下でも、自分のやりたいことへの推進力を保てるかどうかということ。
色々しないといけないことが増えたからといって、自己犠牲の精神で何かを諦めるでもなく、前向きなエネルギーを保ち、パフォーマンスを落とさないこと。何なら、さらに高める方法を模索すること。
それが今問われているところである。
まずは食事を、睡眠を
色々考えてみたが、やはりまずはBack to Basicで、基礎に忠実にありたい。具体的には「飯を食べること」と「寝ること」を整えて、パフォーマンスの前提となるヘルシーさを保ちたい。
制約の高まる緊張下の戦いにおいて、寝不足のデブでは糞の役にも立たないものと心得よ。『二十歳の原点』を読んで目を覚ませ。
卑近な例だと、これまで晩メシは基本的に炭水化物を抜いていたが、親父の「メシを食え食え」攻撃に晒されては、そのやり方も通しきれないとこもある。また、それに付き合うのもまた一興で別の楽しみだったりもするので、それを変える分には構わないが、その出張ったカロリーの帳尻をどのように合わすかは考えないといけない。
これまで以上に細心の「ヘルシーさを保つ工夫」が求められる。
ただしこれはあくまで前提条件、前座みたいなものであり、本投稿の肝は、次に述べる「自分の”負の感情”のコントロール」にある。
まず一日を「好き」から始める
ちゅんちゅんちゅん、朝ですよ。
さて、一日が始まる。スマホを見れば各種の連絡。家を見れば数多の雑事。それらのやらないといけないことや要求(に感じること)を受けても、まずは一旦それらを全て無視したい。可能ならそれらをまだ見ないでいたい。
自分を一番最初の顧客にする。これが肝心である。まずは順番を入れ替え、自分がしたいことから、最初に叶えてあげたい。
好きなことをやっている時はストレスがなく、「なんでこんな事をしなければいけないのか」といった心理的な抵抗もないから疲れにくいし、やった後には爽やかな充実感が漂うハズなので、まずはその清涼感をよく味わうところから一日を始めたい。
それは朝の散歩でも、30分の読書でも何でも良いけれど、自分の好きなことをまず一つ目に持ってきたい。これでひとまずホッとしよう。
逆に、「自分のしたくないこと」から始めて、うっかり手間取り、不用意に時間を沢山持っていかれるスタートは最悪だ。
不愉快な時間が長続きしたこと自体の不快と、それを上手にこなせなかった自己嫌悪。これに伴う感情のブレは、それが終わった後にも、ネガティブな影響として残る。
気持ちはどこか焦りモード。どことなく気がせいて余裕がない。何かしらが損なわれているような感覚や、それを取り返さないといけないプレッシャーを感じるかもしれない。でも、それはヘルシーじゃない。
というわけで、まずは一日を「好き」から始めて、心の安寧を願うのがよいと思う。
ただし当然ながら、どんなスタートを切っても、自分の「好き」なことだけをしてるわけにもいかないだろうから、やりたくないことも避けられない。
ため息色の時間は訪れる。
自由が制限されているほど、思い通りにならない不愉快は発生しがちだし、そんなネガティブ感情ほど、その日の気分を長いこと害しがちな気がするので、この「不愉快のうまい取り扱い」が大事になる。
不愉快は愉快と抱き合わせてアリに
自分としては全くやりたくないが、どうしてもやらないといけないことは、ある。そして全然身が入らない。そこに前向きなモチベーションが無いからである。
その一見やりたくないことを、前向きに捉え直す努力はありだと思う。
「ここから何か学べる事は無いだろうか」とか「この問題が無くなるか、圧倒的に楽にする方法はないか」とか、そんな問いかけは素晴らしい。
しかし、それもいつもうまくいくとは限らない。親父のパンツを洗っている時に学べることは少ない。無理なことは無理なので、できないことを悔やむより、負の感情に対する折り合いの付け方を考えたい。
そこでふと思い出したのが、「不愉快を補って余りあるご褒美を作る作戦」であった。言い換えると、自分の感情の機嫌を取ること。いつしか、子育てにおける友人の工夫に感動したやつである。
てなわけで、週に2~3発生する姉貴の荷運びタスクには、道中の「スシローで千円まで好きなものを食べていい」ご褒美をセットにした。これで病院に行くと寿司が食べられるので、ちょいちょい病院に行きたいぐらいの気分になった。スシローは自腹だけど。
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さて、ここまでを振り返ると、まず、自分のやりたいことからやろうというのが一つ目で、次にやりたくないことには、前向きな意味付けをなんとか考えてみる、それができなかったらそれでもトータルオッケーと思えるご褒美をセットにしてあげる。これが基本方針である。
ただそれでもなお、なんだかなぁって思うことはあるんじゃないか。
ポジティブな意味付けもできないし、ご褒美を考えても全然気が向かない。そんなこともあり得ると思うので、それを考えてシメとしよう。
楽になる勇気と、楽になる努力
なぜそんな風に嫌なのかを考えてみると、基本的に自分ではない誰かの要求に沿わせざるを得ないケースがあるなと思った。自分に嘘をついたり、自分の価値観を曲げて納得できないものに沿わないといけないのは、とてもじゃないが気分は優れないものだろう。
それでも、それが求められるケースは、御しがたい(と感じている)相手がいることへの遠慮ではなかろうか。
そこでは、以下の2つを考えたい。
・その要求に「No!」と言うことは出来ないか?
・その要求に応える上での、最も楽な方法は何か?
本当にそれをする必要があるのかを問い直すこと(楽になる勇気)であり、それをする上で、最も楽な方法を考えて提案すること(楽になる努力)である。
これらを、きちんとサボらずにやれば、案外自分がしないといけないと思っていたことよりずっと簡単になることは多い。また、その交渉を経たこと自体で、相手側からの見え方を含め、その問題に対する捉え方が変わるのは勉強になる。一面的な自分の思い込みが、自分自身を苦しめているケースは僕にはよくある。
それでも、交渉の余地なし、相手側は一歩も譲る気なし、こちらが貧乏くじを引き続けることは決定しており、それから逃げることも出来ない、というケースもあるかもしれぬ。
例えば、ちっちゃい我が子がわけもわからずひたすらに泣きわめくみたいな状況だろうか。
そういうときは感情をオフにして、何も考えずに走り抜けたい。
最後は感情に麻酔を打ち、機械的に捌く
そんな状況では、もうなぜとか、どうしては役に立たない。
そんな時は、心を閉ざすと言うと否定的に聞こえるかもしれないけれど、感情をブレさせられぬよう自らの判断で捌く。ただこなす。
例えとして妥当かはわからないが、タダでさえ忙しい看護師さんが、数多の患者の不安とか不満とか文句とかの全てに寄り添おうとしても、不可能だし持たないよって時があるような気がする。そんな時には、自分側での一定のガイドラインを設けた上で、機械的に捌くのも、必要である。
人としての柔らかなところを守るために、人間のよきところ、ポジティブな面を持ち続けるために、多少ドライに割り切るところがあっても仕方ないのかなと。それを自分のためにやってほしいし、それが真に周りのためにもなるんじゃないかと思っています。自己犠牲に走りがちな「いい人」にこそ。
まとめ
制約があってこそ、クリエイティブの花が開くと信じたい。
その上で、1つ目は自分のやりたいこと、好きなことを一番最初にやろう。これでちょっとホッとするはず。
2番目に、自分のやりたくないこと、好きでないが、やらないといけないことをやる時には、2つの方針があって、1つ目はそこに何かポジティブな意味あい、ここから何かを学べないかと考えてみる、リフレーミングをしてみる。それが叶わない場合は、その不愉快以上の愉快を抱き合わせて「あり」にすること。嫌なこともトータルまぁいっかと思えるように。そういうやり方を考えてみる。
最後に、それでもダメだって時にも、2つあって、まずは相手ありきの問題については、一回だけ交渉を頑張る。交渉ってのは、まず本当にそれをしないといけないかを確認すること。そして、そうだという場合には、その要求に応える上で、自分にとって最も楽な方法を提案すること、互いの折衷案を探しに行くということ。楽することをサボらないこと。
最後の最後に、相手に交渉の余地がない場合、自分の感情を守るためにただただ機械的に捌くのもアリだ。
この3つの創意工夫で、自分の感情のヘルシーさを保ちたい。そうすれば、自分のやりたいことを、制約の中でも花開いてゆかせられるんじゃないかと思い至った所存。
(以上)
写真:公園の桃。桜が散って桃が咲いた。
参考:友人の子育てのくだり。以下の余談を参照。
『私的聞きかじり子育て論』 https://note.com/ulbl/n/n1f3c251cb52a
よくぞここに辿り着き、最後までお読み下さいました。 またどこかでお目にかかれますように。