とある地元のとある夜
この夏、地元の奈良に帰省した。そのほんの一幕、とある地元のとある夜の出来事をしたためたい。地元に漂う〝おぼろげな幸せ〟みたいなものが伝えられたらなと思う。扉絵はルノワール。幸福の画家。
僕の地元の奈良県生駒市は、隣接する大阪への往来が盛んなエリアで、おおよそベッドタウンと呼んで差し支えないだろう、人口10数万人の地方都市である。そんな街に住む一部の若者は、大阪方面から最寄り駅に終電間際で帰ってきては、少し寝静まった街を、黙々と家路を辿ることになる。そんな道すがら、奇しくも反対方向、こんな時間に駅方向に向かって歩を進めてくる者がいる。
僕である。
駅前のGEOにレンタル漫画を返す。そんな市井の動きであった。かくして、単なる「相撲漫画」の枠には収まらない人間の生き様を叩きつける『バチバチ』『バチバチBURST』に連なる、衝撃の最終作『鮫島、最後の十五日』は無事に返却され、次の読者を待つべく、レンタル漫画コーナーの棚に戻る運命を辿ったのだが、その話とこの話は関係がない。
この話は、単に実家から駅前のGEOまでの500メートルぐらい、夜道をほっつき歩いてた時に僕の身に起こった話であり、まぁそれはそれで、今の僕の生き様を叩きつけるお話にはなってしまうであろう。題して「ペチペチ」と。
それでは行きましょう。
***
一人目、舞踏会帰り
駅までの道は一本道で、街路樹が立ち並び、街灯もちょいちょいあるという、決して個性的とは言い難いが、長年住んでいたらそれなりに味わいもある気もするが、よく考えればやはり普通の道である。駅に向かって、ゆるやかに曲がり、下降してゆく。
片側一車線の道路の両側には、それぞれ歩道があり、引いた視点で見ると、僕は一番端の歩道を駅に近づくように下っていて、彼女は、車道を挟んだ反対側の歩道を駅から離れるように上ってきていた。
地元の人間観察ほど面白いものはないので、僕は安心の距離感をもって遠目に眺めながらすれ違う。スマホを見ながら歩いている、その下側からの光は、彼女の首から顔あたりをボヤッと仄白く照らすが、その顔や表情はよく見えないという絶妙のサジ加減で、言わば、印象画の雰囲気であった。
コンコンと乾いた靴音と、スマホからの仄白い光が包む彼女自身は、夜道の中でぼんやりとして、僕もそれをただぼんやりと眺めていたが、そのさらに後ろ側に、不意にクッキリと目に飛び込んできたものがあり、ハッと釘付けになった。それは、斜め上から照らす街灯の光によって、民家の白い塀に浮かび上がらせた彼女のシルエットだった。
思わず歩を緩めて、動く影を見つめる。ぼんやりとした本体こそが影を潜め、むしろ彼女の陰影こそが雄弁であった。それはまるで、シンデレラの時間に舞踏会から帰ってきたかのような印象で、白いキャンバスに彼女の服装や、フォルムが優雅に映し出されていた。差し出す一歩一歩が、恍惚の時間であった。
二人目、粗にして野だが卑ではない
これは靴が悪いのか。それとも歩き方の問題か。いやそれ以前にその靴や歩き方を良しとしているセンスの問題ではないのか。センスと道具選びと行動パターン、それに伴う自己満足。そんな自己強化ループがあるのではなかろうか。
そんな〝自分なりの壁〟を俯瞰しながら進めるような、主観と客観のバランス感覚はどのように学べるのだろうか。登場するや否や、そんな僕自身の悩みも丸裸にしながら、2人目の女性も、スマホの仄白い光に包まれながら現れ、対岸をすれ違う。
ただし大変失礼ながら、舞踏会帰りの一人目と比較するには、仕上がりが随分と粗野であった。
ズッた、ズッた、奇妙な靴音が夜道に響き、本体がのそのそと運ばれていた。一気に現実の不条理とも殴打とも言えそうなものを食らって、僕は左手のGEOの返却袋に重さを感じた。相撲漫画であった。
街灯によるシルエットも効果的とは言い難かった。新しいアルファベットか何かを見させられているような気持ちになったが、それでいて、彼女自身の雰囲気からは、自分なりの何かを持ってるような感じもした。
洗練していないこと。粗野であること。でも卑ではないこと。僕の地元を代表しているのはまさに彼女なんじゃないか。そんな気がした。
三人目、地元ならではの動き
ついに来ました。この文章の流れは、ざっくりホップステップジャンプで、彼女がジャンプである。この地元で僕のハートを射止めた一撃を書きたいがため、この文章を書いているのだ。
彼女はこれまでの2人とは違い、僕と同じ側の歩道を上って来た。車道を挟んだ逆サイドと、正面の対向とではまるで緊張感が違う。人とすれ違うだけで何をそんなに緊張するのかは、都会の人には想像が難しいかもしれないが、ざっくり言うと、地元ならではの「夜道の人気のなさ」が前提にある「相手への遠慮と好奇心」による気がする。
つまり、地元では「誰かかも知れない」から「何かあるかもしれない」感じがしてしまうのだと思われる。どうしたとて。
遠慮と好奇心の綱引きが始まる。
まずは遠慮から。許された歩道の幅を、街路樹に肩を擦るか擦らないかというギリギリまで、可能な限り距離をとる。コロナ禍であり、深夜であり、異性であり、片や若い女性、片やオッサンの入り口である。どれだけ避けても避け足りない。
距離がだんだんと近づくにつれて、深夜にフラフラしてる「不自然さ」自体も急いで払拭するアピールに追われ始める。僕は小市民の中でも小さめで、明日の朝までに返さねばならない、漫画、この漫画を駅前のGEOまで夜のうちに返すのです、ええ、そうなんです。左手のこの返却袋を見ればわかるでしょう。とでも言うように、主役の返却袋を盛り立てる助演に駆られる。
***
さらに緊張することには、スマホを見ながら歩いていた対岸の二人とは異なって、彼女はまっすぐ前を向いて歩いてきた。深夜の歩道の一本道、お互い前を向いて徒歩ですれ違う。相手が視界に収まる時間は余りにも長い。二人目までを呑気に過ごして、3人目の彼女を把握してから焦りはじめ、少しづつ返却袋を前面に出し、少しづつ間隔を広げ、少しづつ伏し目がちになって、すれ違う。
その刹那、ここで好奇心が目を覚ます。死んだふりをしていたのだ。
呼吸を落ち着け、咳払い一つせぬよう気をつける。平常心を装いつつ、歩くために必要な程度の範囲で、正面をちらっと見るときに映る分だけ相手を見て、すれ違う。その残像が、記憶に一瞬とどまる。
一歩で、二歩分。二歩で、四歩分、遠ざかる。何歩行ったかわからないぐらい、靴音も聞こえぬほど遠ざかったところで、僕は振り返った。
するとちょうど振り返った先、後ろ姿のハズの彼女は、立ち止まって、既にこちらを見ていた。
(以上)