山に眠れ (Rest in Mountain)
登山家の栗木氏が亡くなったニュースを受けて昨日、山好きが多いわたしのSNSのタイムラインは追悼の投稿であふれていた。
わたしは…もう何年も前に「ばりっばりに達成型のサラリーマンで趣味は登山」であったわたしは、彼の映像をはじめてみたとき、正直「うわっ、なにこの人」と思った。「衆目の前でだらしなく泣くために登っているのかしら」って。あんまり見たくない。聖なるエベレストにチャレンジするならもっとちゃんとしててほしい。「神々の山巌(いただき)」のハブみたいにハードボイルであってほしいよ。
山好きのバイブル。小説も映画もあるが、ここは是非、谷口ジロー氏の精緻な筆の光る漫画をおすすめしたい。
で、それ以降、そもそも、普段テレビをほとんど見ないというのもあるのでほんとに見なかったのだが、今回久しぶりにその名を聞いた。
そして、自分の感じ方が以前と変わっていることに気が付いた。それは、訃報だからというのではなく。時間を経て自分の見方が変わっていた。好きになったとかではないんだけど、嫌だと感じる物差しが消えていた。
自分が人徳者になったと言いたいのではない。最近、発達心理学関連の本とかいろいろ読んでいるせいで、一人の情動的な人間としての自分の変化(進化ではない)をいちいち興味深く眺める癖がついている。
他者からみると計算や理屈に合わない情熱に動かされることがあるのも人間。説明できなくても、自身を損じても、何かに魅かれてしまうことがある人間。栗木さんという人は、そういう人間の情動を、露出狂かと見まごうまでに解放する天賦があったのかなあと。
「生きてこそ」と、生に縛られているわたしたちは思ってしまう。が、人からみて自殺行為であっても、ご本人にとって山にチャレンジすることは生きることそのものだったのかなと思う。
そして山は、その人の資質を測って「来ていいよ」とか「あんたは来ちゃダメ」とか選別したりはしない。山がお呼びでないというなら、そもそも誰のこともお呼びではない。わたしたちが勝手に惹かれてそこに行くだけ。上に届いた届かないとか、筋肉感情の鍛え具合とか、山から見れば、誤差も甚だしい。小さなわたしたちが、勝手にああでもないこうでもないと言うだけ。
死ぬまでやりたいことやった。ある意味うらやましい。