畏れはしても、恐れない
2年前までビジネスの世界にどっぷりつかっていたわたしが催眠療法(ヒプノセラピー)を学ぶことになったきっかけは、ノリとタイミングであった。
今でこそ、人の心の奥深さに興味が尽きず、必然の縁に思えるが、当時はその何たるかをよく知らずに始めた。
だから、その学びの途上で、束の間、どうにもこうにも目に見えないものが恐く思えてしまう瞬間があった。
ヒプノセラピーは代替療法の中でもマニアックな側面があるから、想定外に訊ねられることが増えたのだ。「あっちの…見える人ですか?」とか「憑かれないように気を付けて?」とか。
当時のわたしの不安を端的に言語化するなら、
「見えるって、何が?」「憑かれるって、何に?」
サラリーマン時代は目に見える世界を生きることに必死だったから、精神世界、Spiritualityについては、「あまり考えたことがなかった」。
一体なんなんだ、と考えはじめて、師匠にとことん質問し、個別にいろんな人の話をきいたり書籍をあたったり、クライエントの皆様から教わったりしているうちに、いつのまにか怖くはなくなった。立ち位置としては、元居た場所に近いところに戻った。
自分にわからないものがあることは認めるが、わからないことを無闇に恐怖する必要はない。畏れはしても、恐れない。
時々、その何かが「見える」という人がいる。それはそれで信じる。
ただ、その特殊性よりも、所詮は同じ次元に捕らわれている人としての個人に着目すれば、信頼できる人は自分の「見えない」部分があることも認識している。他者にそれを話すのは、自分の「見えない」が不安だからということも自覚している。
自分の「見える」を絶対視して他者を見下したり、不安を煽ったりしてしまうというのは…その原因が悪霊であれ、憎らしい隣人であれ、その人自身の生きやすさに関わる、サイコ・セラピーのチャレンジ領域である。
また、「見えない」ことなどない、自分の言葉は絶対だ、全知なのだと言う人がいるとしたら、そいつはヤバい。ダウトだ。カルトだ。これだけは自信をもって言える。あなたの心の中のゴーストよりも、その相手から全力で逃げたほうがいい。
「僕のバアちゃんが物理的に除霊を行った話」というのを読んで、声を出して笑い、当時の不安を思い出した。
宇宙の広大さと生命の不思議の前に、だいたいの見える見えないは誤差である。今ここある身体の強さの前に、幽かな悪意は基本的には無力である。
表題写真は、ヨーヨー(4歳)が恐れる「ノンタンのおねしょでしょん」に出てくる雨雲、通称 ”でんでら"。「でんでら、でんでら、あめあめふらせ!」と登場してお日様を隠し、ノンタンたちのおねしょシーツ干しを邪魔する。わたしも子供の頃、怖かったよ。悪い顔しているもんね。
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