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東大生の8割は「俺はザ・東大くんとは違う」と思っている

…のである。少なくとも、私の同級生を眺めまわすとそんな感じ。少し心をひらいて話すようになると、それに類することを聞く。だから逆説的に「自分はザ・東大くんではない」というのは典型的な東大くんなのである。

最近、あるオンラインのおしゃべりの場で東大同期のYがポロっと言うので「なぬっ!おまえもか」と思ったら、一緒に聞いていた別の友達Kが「確かに、僕の知る東大卒のひとたちって話しにくい感じがありますけど、Yさんは違いますね」と応じて「なぬっ!」と二度びっくり。Kはやさしい共感を示せる男なのだが、私が東大卒てことは忘れてたにちがいない、きっと。

…というわけで、Yを昔からよく知る私としてはオマエモカ!が先に立ったけと、まあ、引いて見れば、なぜそう言いたくなるかはわかるよ。

わたしたちが物心ついた時から放り込まれる社会の教育が受験至上主義だから。そのゴールの国内てっぺんが「東大」なので、良くも悪くも皆その名を知っていて、何か具体的な(あるいは自分には関係ないけどなんか凄いとかいうのも含め)「型」のイメージを持っている。

はじめましてな場合、目の前の見たことのない人の顔を観察する前に、まず、その「型」は聞いたことあるよという反応になる。

でも、人はだれでも、他者とのかかわりにおいて、本質的には粒々の自分個人を見てもらいたいもの。いや、そうじゃなくって私は…と、相手の中にぽっと浮かんだイメージを消すところからはじめなければいけない、これがほぼ毎回というのがめんどくさいの。

「ザ・東大くん」以上に「ザ・東大女」のイメージは悪い。気が強くて本ばっか読んでて可愛げがないという。まあ反論できない。

でも、改めて今はどうかと考えると、事実は事実だし人は色々なことを思うものだし、それより子供たちを育てることに四苦八苦で、まあかなりどうでもいい。それに、総合してみると私自身は学歴で得してきたことのほうが多い。

仕事などの社会的な居場所を得る際に、この「型」は実にパワフルなんだ。どこかの戸を叩いて門前払いになることはない。私のいい加減さの前に「東大」というちゃんとしたイメージを先に見てくれる。

もちろん、実際仕事ができるかどうかは全くの別問題だから、それだけで何でも突破できるわけではないし、人様の役に立つためには努力し続けなければならないんだけれど、まあ、そういう世の中なので。

最近ニュースになっていた、楽天PCR検査キットの製造会社の代表の詐称疑惑も。難しい手術をする医者だろうがただのコーネル大卒だろうがそうでなかろうが、粛々とビジネスをすることには関係ないと思うけれど、騙(かた)ることで話が早くなったり、取引の道が拓けたりというのを経験したら、止められなくなっちゃったのだろうか。

この手の話を聞くたびに、私は、綺麗な羽根をいっぱい体に飾り付けてコンテストで優勝したカラスのイソップ童話を思い出す。自分でないものになりたいと願うカラスの心情を憎めず物悲しい気持ちになる。でも、ズルしたカラスはアジテートしたほかの鳥たちから羽根をぜんぶむしり取られてしまう宿命なのだ。

先に調子にのせて自慢話を引き出しておいてから落とすという意地悪な文春記事で読んだから余計にそれを思うのかもしれない。

詐称を擁護する意図はないけれど、メディアが個人の失敗を取り上げるのに、他の鳥たちをとにかく煽り立て興奮させることを目標にしちゃいけないと思う。センテンス・スプリング事件の頃から変わる気はみじんもなさそうだけど、ペンは剣よりも強しなんだから。

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