Sound of silence
昨日、「労働は愛のため」という投稿をした。一歩踏み込んで語ると、わが国では憲法において、労働は教育・納税と並ぶ日本国民の三大義務と定義されているが、極論、労働しなくても暮らしていけるなら構わないんじゃないのと私は思っている。義務と思ってるから空虚にもなる。美徳という前提が働き方改革の浸透を妨げる。なんと、満員電車がなくならない理由もその辺にありそうって説も。ま、非国民的発言はそのくらいにしておいて。
しばらく前に某研修(受けるほう)でテーマを立てて考えてみましょう、というワークがあって、私は自分に対して「私は何のために生かされているのか」という問いをたててみた。
20~30代の私は、「生かされている」という感覚を得ることはあまりなくて、むしろ、はっきりと「自力で生きている」と思っている系だった。例えば、グランドジョラスの北壁単独登攀に失敗した人格障害の登山家、羽生(@「神々の山嶺」by谷口ジロー)の以下の言葉に共感するものがあった。
「神がとか幸運がとは言わない。
このおれがその権利を手に入れたのだ」
羽生の言う”その権利”というのは「あと一晩か数時間生きてもいいという権利」。ちっぽけな、しかし偉大な。
しかし最近はなにかにつけ「私、生かされてるなあ」と感じることが増えてきている。
この変化は、今、小さい二人の子育てと仕事の両立で余裕がないからとも言えるし、逆にある意味の余裕ができたからとも言える。これ(子育て)が一段落したら生きている感バリバリに戻るのか、不可逆的なものなのか。
ある人物から受けた親切を、また別の人物への新しい親切でつないでいくことを、英語で「Pay it forward」という。仏教的には「縁起」。そういうコンセプトをここ数年、素晴らしい出会いから学ぶ機会を得ているから、そのせいかもしれない。
とにかく、生かされているとして何に?何のために?というのが解せぬと思っていたので、それを考える良いチャンスを得て、軽い自己催眠モードで自分に訊ねたところ・・・
「死者のためである」という答えが返ってきた。
具体的に、もう二度と会えない過去の人たち3人の面影がたちあらわれたために、びっくりして目をあけてしまった。
自分の内側から出た答えなのに、催眠状態でクリティカルな質問をすることの怖さというか、鮮明なイメージに不意を突かれて泣きたくなった。
うち一人は、この「つかさまき」というペンネームをくれたじいちゃんだった。じいちゃんについては、常に心の中にいる感じはしている。いろいろ与えてもらったのにもう「ありがとう」と伝えられない人がいて、そこでうけとったものを世界におかえしするために、私は生かされているってことか。(それは、比較的良く考えることなので納得。)
そして、残る二人は若くしてそれぞれ自殺・急病で亡くなった同年代の友人だった。他にも死者の知り合いはたくさんいるなか、なぜその二人だったのかをふわふわと考え続けていたところ、どうやらどちらも非常に優れた才能を持っているとわたしが思っていたという共通点を見つけた。つまりは、彼らがはずみで行使し損ねた善なるものを代わりに世界に届けるために私は生かされているということ?(えっ、それって大変・・・!)
こういうのを啓示だとかなんちゃらとかいって騒ぐ趣味はないけれども、謎の「生かされている感」について思考停止せずに、自分に問い続けるのはチャレンジングで、いろんな角度から考えられて面白いので、しばらくマイブームとして続きそうである。
BGM: 「Sound of Silence」by サイモン&ガーファンクル