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不味くて美味しいお酒


身についた仕草のように缶のふたを開け、キンキンに冷えた影響で滲み出る水滴が手のひらを濡らす。缶を傾け、冷えたビールを口の中に含む。味を感じるよりも先に、ほどよい炭酸が舌の根元を通って喉にたどり着き、やがて胸の辺りがさっぱりとする。炭酸が薄くなった頃にようやく、ちょっとした苦味と一緒に発酵した麦の香りが口の中に広がる。冷静に考えればそんなに美味しいとは思えない。今冷蔵庫の中で眠っているコーラの方が美味しいはずだ。少なくとも、子どもの頃はそう感じていた。しかし私の手はその頃の気持ちとは裏腹に、また缶を口元に寄せ、冷えたビールを喉に流し込んでいる。

いつからビールを美味しく感じるようになったのだろう。初めて飲んだ時の記憶を振り返ってみる。あれは17歳の秋、高校時代の修学旅行の夜だ。4人部屋だった私たちは風呂上がりでまだ濡れていた髪をタオルで拭きながらビジネスホテルの冷たい床で丸い円を作って座っていた。円の中心にはその日1日監視の目を盗んで守っていた小さなリュックが、まるで神殿に備えられた秘宝のように私たちの前に佇んでいる。そして仲間の1人が慎重にリュックのチャックを下ろし中身を取り出すと、ビニール袋の中から紙コップとビール1本が姿を現した。私たちの目はサーカスで今まで見たことのない動物を見た時のようにキラキラと光っていた。もしかすると部屋に押しかけてくるかもしれない先生の気配をドアの向こうに感じながら、私たちはコップにビールを注ぎ、それを口にした。

「不味い!」

そう言って私たちは楽しそうにケラケラ笑いながらビールをトイレに流し、気づけばコップの中身は高校生が好むコーラやサイダーで満たされていた。10代のちょっとした逸脱が作り上げていた緊張感はすっかりと消え去り、いつもの騒がしさが部屋中を満たしていた。今思えば先生にバレないようにハンカチや洋服で何時間も包まれて生温くなったビールが美味しいはずがない。

ーーー

それから時が経ち、同じ制服を着て、同じ教室で過ごし、他愛もない会話に花を咲かせていた私たちは、気づけば大人になった。社会の慣れない肩書きや濃い化粧の下に隠されていても疲労が溜まっていると分かるその顔は、もう子どもとは違う。間違いなく大人の顔だ。実際の精神年齢はまだ子どもで、それなのに年齢を重ねただけの大人になった私は、ずっと大きくてサイズの合わない服を肩にかけているような気分だ。そんな疲弊する日常を過ごしている私にも楽しみはある。それは友達と集まる為にたまに繁華街の小さな居酒屋に行くことだ。その短い時間だけは、修学旅行で密かに隠していたビールを飲んだ学生の頃と変わらない笑顔で談笑できる。それはかけがえのない時間だ。

友達と話しているとお互いの本質が少しも変わっていないことに安心と慰めを感じる。美味しそうにグラスを傾ける友達の姿を見て、これまでの人生を一緒に歩んできた時間を思い出す。楽しかった修学旅行、20歳の成人式、失恋をした時には慰めの言葉をかけてもらい、仕事でミスをして落ち込んでいたら励まし合う。あんなに不味かったビールが今ではこんなに美味しく感じられる。その理由はみんなで過ごした幸せの記憶の中に、お酒も友達のようにその輪に入って楽しんでいたからだ。

第一印象が悪かったクラスメイトと幾度とない誤解と喧嘩の果てに親友になることがあるように、私はお酒ともいつの間にか信頼できる友達になっていたのかもしれない。色んなことに疲れた時や悲しい時は無口で優しい幼馴染のように話を聞き、そっと肩を叩いてくれる。嬉しいことがあった時にはクラスのムードメーカーのように祝いの場を作って周りの人とその嬉しさを共有させてくれる。時には失敗もしてしまうこともあるけれど、付き合い方を考えながらこれからも寄り添ってくれる存在であってほしい。



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ゆくん
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