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加速だけが選択肢ではなく、一人一人が物語を積み上げていく


夕暮れどき、友人たちと海辺で音楽を奏でること。

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海に潜り、生き物たちと一緒に泳ぐこと。

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楽器を奏でて歌いながら、夕陽に向かってドライブすること。

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恋人と子どもと、海を見ながらまったりとすること。

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自然に囲まれていて、心の底から自由になれるような時間。
誰がどう見ても豊かに見えるこの生活。


だけど私は、最初の2,3ヶ月、この幸せを受け入れることができず、困ったことに、こんなのんびり生きてて良いのだろうかという罪悪感、更には、私にはまだまだ「できない」ことがたくさんあるのに…というコンプレックスにも近いようなものを抱きながら過ごしていた。


時折顔を出すスピード社会で育まれた価値観

「情熱の注げる仕事をして、世の中に新しい価値を創出してやる!」

東京では、仕事をしながら、毎日成長する事を知らずのうちに自分に課す。
そんなこんなしてると、仕事が生活のメインになって、休日も気分が休まらない。
自分のやりたい事をやるなら、自分で稼げるようにならなきゃということばかり考える。

東京を、日本を、大きなマーケットとして見る。
自分がやっている趣味も、価値があることなのか、稼げるか稼げないのかを考える。
社会には問題が沢山あるからそれを変えていきたい、とも思う。

あの人はこんな事をやっているのに。
他人と比べてしまう。
成長したい、加速したい、頑張りたい。
けどできない自分に苛立つ。


そんな東京での生活に比べて、小笠原では毎日
好きな人たちと好きな時間を過ごす。歌ったり、お喋りしたり、泳いだり、ただただのんびり。
なにか「新しい価値を生み出す」刺激的なことは後回し。

周りの友達は、みんな東京を中心にガツガツ働いているのに、この歳でのんびり過ごす自分は、楽を言い訳に伸び代を捨ててるのではないか。
甘えてるんじゃないか。
この生活は、よくないんじゃないか。

思えばそれは、自分でこしらえた価値観の中で
善悪を判断しようとしていたからなのかもしれない。


焦り渇望することで身近な人を傷つけていた

そんな野望に囚われて、気づいたら自分自身や
周囲の人を不幸にしていたことがある。
周りと比べてしまい「自分はバカで、何もできない」と毎日父親に愚痴っていた時期があった。
吐き出せばスッキリする愚痴なら良いのだが、
一向によくならず毎日グチグチ。

すると、ある日突然
「オレはお前をバカに育てた覚えはいっっさいない。自分がバカだと思う環境なんてそんな場所早く出ろ!そんなとこにずっといる方がバカだ。」

いつも優しい父親が、10年ぶりぐらいに、早口で、強い口調で、怒った。

ハッとした。

私は「自分なんか」と言うことで、
自分を大切に思ってくれる人まで傷つけていたんだ。
父は、娘の精神的な自傷行為を常に横で眺めている、
そんな気持ちだったのかもしれない。

私の場合、それを止めてくれたのは父だったが、これを読んでくれている人も
他の家族の誰かかもしれない
他愛もない会話で盛り上がる昔からの友人かもしれない
大切にしている恋人かもしれない
仕事場の同僚かもしれない
はたまた遠くから見守ってくれている誰かかもしれない。

「自分なんか」と言うことは、あなた自身だけでなくあなたを信頼している誰かのことも傷つけることを心に留めておいてほしい。


満たされる時間を、積み上げ育てていく

話がそれたが、島の話に戻る。

加速の価値観とのんびり流れる島タイムのギャップに揉まれる中で、1つ気づいたことがある。
それは、「自分が幸せと感じる時間を、積み上げ、育てていけば良いんじゃないか」ということである。

自分は、どちらにいてもどこか満たされない想いを抱えていた。
だから、多分どちらが良くてどちらが悪いということではないんだ。

満たされる部分だってあるんだから、その時間を大切に育ててみればいいんじゃないか。その中で、焦らずに自分のやりたい事や出来る事を積み上げる。

私の尊敬するO先輩は、西洋哲学になぞらえてその事を教えてくれた。

プラトン以来、西洋哲学は物事を「真偽」とか「善悪」といった優劣のある二項対立のなかでとらえる発想のもとに成り立っていた。
だが、当たり前だと思われていたこと、あるいは当たり前だと思ってきたことの背景には、かならず何かしらの構造的背景があって、それを構造の外から二項対立的に批判するのではなく、構造の内に生きて、再構築、再構成していくっていうのが、デリダの「脱構築」だよ。


つまり、何が、誰が正解とか、正しいとか、良いとか、そんなものはあまり重要ではなくて。
私なりの、あなたなりの、ストーリーを構築していけばそれでいいのではないか。

一見、加速「しなければならない」世の中に見えるけれど生き方はそれだけじゃない。
自分なりの、幸せを感じる生活を大切にしながら、丁寧に積み上げていくことができるんじゃないか。


小笠原は各々の幸福が混在している

小笠原には、そんな生活を大切にしながら、ほどほどに仕事をしてる人が沢山いるように見えます。

それが理由かは明確にはわかりませんが、少子化なんぞどこ吹く風。
どこもかしこも子どもたちが遊んでいるし、男女問わず家族を大切にする。
イクメンなんて言葉は当たり前すぎて誰も使わない。

そんな日常をみながら私は、これまでの25年間でせっせとこしらえてきた、かたまりになった価値観を、ぐるぐるとほぐしている最中です。


最近あった素敵だと感じる時間はどんな時間でしたか?
どんな人を大切にしたいと思いますか?
あなたの育てたい物語は、どんな物語ですか?


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