生徒会長青木の話
私が新任教師として夜間定時制高校で働きはじめたときの話だ。
はじめて青木を見たのは1995年4月10日(月曜日)入学式の日だった。
この時はまだ、青木が一生忘れられない生徒の一人になることを私は知らない。
当時の定時制には、ヤンキーの残党がまだ残っていて「先公! うるせーな!」と胸ぐらを掴んでくるような輩もいたのだが、青木はそういうタイプの生徒ではなかった。
青木はよく学校を休んだ。
特に定期試験の時に理由をつけて休んだ。
またその理由がとんでもないものだから、教師を怒らせた。
「先生、口が乾くので休みます」
「青木! 何言ってるんだよ。休んだらゼロ点だぞ。進級できなくなるんだぞ!」
「……」
やりとりも虚しく試験を休むこともあったし、担任の情熱に負けて渋々学校に来たこともあった。
遠足の日には、集合日時と場所を間違え、異次元な時と場所に出現した。
私は青木に英語を教えていた。青木はありえないぐらい物覚えが悪かった。
「catは猫、dogは犬」と授業の始めで教えても、
授業の終わりに「では、キャットの意味は?」と確認すると、
無言である。反抗している様子はない。
「cat foodは、ねこまんま」とヒントを出すと、ハッとした目をして答える。
「犬?」
「あおきぃ〜!」
クラスメイトのヤンキーたちは椅子から転げ落ち、教室は爆笑で包まれた。
見学旅行の朝食会場にはスーツ姿で現れ、駅では指差し確認するなど鉄オタぶりを発揮した。
青木は卓球部に所属していた。定時制にも部活があり、夜の9時15分から10時まで活動する。青木は同じ部活のヌノメが好きだった。しかし、卒業まで進展はなかった。
青木は生徒会長だった。人望があり、選挙で当選したのだ。
しかし、挨拶がある日は、ほぼ休んだ。
始業式・終業式はもちろん、入学式や卒業式まで休む気配があった。
そして、クラスメイトでもある副会長のコウガミがいつも代理で挨拶をした。
「今日も青木はいませんので、私が代わりに挨拶をします……」
万事こういう調子だったものだから、青木が4年になった時の卒業認定会議は紛糾した。
「青木をこのまま卒業させていいのでしょうか」若い教師が息巻く。
「時数も厳しく、成績もギリギリです。いや落第点です!」教務主任も報告する。「catの意味がわからないんですよ」と私が言うと、他の教員に目で制された。
「このまま卒業したら、他の生徒へ示しがつかん」生徒指導部長が正論をぶつ。
そして、狸然としたベテランがポツリとつぶやく。
「青木には時間がないんだよ」
職員室が静まりかえった。
全員一致で青木の卒業が決まった。
物覚えが悪く、授業についていけない。
日時場所を間違え、遠足に来れない。
試験を休み、ゼロ点になる。
好きな女の子に告白をしない。
鉄オタである。
生徒会長なのに挨拶をすっ飛ばす。
結果、卒業が危うくなるが、先生たちの大恩情により卒業を決める。
違和感はあるが、このような生徒はどこかにはいるかもしれない。
そう珍しくはないと思うかもしれない。
しかし、青木にはたった一つ決定的に他の生徒と違うことがあった。
青木は65歳なのだ。
「青木さん」は、ただ一人の定年高校生なのだ。元国鉄職員で、国鉄一筋で定年まで勤め上げた後に、定時制に入学した。
色々な人の話を統合すると、国鉄時代に中卒しか学歴がないことで相当苦労したという。想像も及ばない悔しい思いをしたのだろう。
勉強はいつも全力で頑張っていた。だから、授業で変なことを言っても、ヤンキーが馬鹿にするはずはない。
英語は苦労していたが、歴史は先生より詳しかった。
元国鉄職員のプライドがあるから、挨拶で口ごもったりするのが恥ずかしくて、式を休んだ。
卓球部のヌノメは普通の高校生だったから、ただ純粋に新しい孫ができたみたいに面倒をみていた。
見学旅行は社員旅行のように見えた。
10代から60代まで全ての世代が一緒に旅行した。
もちろん見た目の引率団長は青木さんだった。駅での安全確認は完璧だ。
生徒会長になってもらった理由。それは、みんな青木さんが大好きだったからだ。
卒業式の日。
青木さんはスーツでビシッと決めて、壇上で卒業証書を受け取ろうとしている。
会場には奥様がきている。
在校生や教員も壇上を静かに見つめている。
新米教師の私はカメラマンの役目を与えられた。
その勇姿を絶対に写真に収めるのだ。
青木さんがついに卒業証書を校長先生から受け取った。
同時に奥様からは花束が贈られた。
「青木さん。頑張ったね」
そう心の中で言ったつもりが、なぜか大合唱で聞こえた。
会場にいる全ての人間が思い思いに祝福の言葉を述べていたからだ。
私は号泣していた。
ファインダー越しに青木さんが見えない。
ベテランも校長も、コウガミもヌノメもヤンキーも、みんな泣いていた。
青木さんは失われていた高校生活を取り戻し、68歳で卒業した。
青木さんのいない学校は少し静かになった。