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予備知識無しで初めて聴くショスタコーヴィチの交響曲の感想(その6)「交響曲第15番(ザンデルリンク/ベルリン響)」巨匠最後の交響曲に相応しい名曲でした

前回は第9番を聴いて、ベートーヴェン的なものを退けた「軽妙洒脱なわずか演奏時間25分の第九」だと感想を書きました。友人にその壮大さで感銘を与えたという初期稿の第一楽章(の断章)はwikiで聴けますが、これが重厚で変拍子の実にカッコいい曲なんですよ。まさに当局が求めていた第九らしい第九、このまま完成させてたらショスタコーヴィチの異名は「現代のモーツァルト」から「現代のベートーヴェン」に変わってたんじゃないですかね。この曲の噂はきっと当局にも届いていたでしょう。ところがショスタコーヴィチは自分の第九はコレジャナイと思ったんでしょうね。もう似ても似つかない明るく爽やかな第9番で見事に当局の期待を裏切り肩透かしを食わせます。これが「ジダーノフ(による)批判」っていう悪名高い文化芸術抑圧政策につながっていくわけですが、一度「プラウダ」批判で痛い目に遭っているのに、またこんなことしてしまうショスタコーヴィチは相当な硬骨漢であると共に自分の天才を信じていたんでしょう。簡単には潰されない自信があったんだと思います。その答えが第10番だったのでしょうが残念ながらライブラリには入っていませんでした。

さて、このショスタコーヴィチの交響曲を予備知識無しで初めて聴くという試みは弟のライブラリに入っていた最後の一曲、交響曲第15番で一区切りにしたいと思います。この曲に関しては、ショスタコーヴィチ最後の交響曲という以外は全く何も知りません。普通に4楽章ありますね。では行ってみましょう。

交響曲第15番(ザンデルリンク/ベルリン響)

(初聴き)


第1楽章、朝早くに鳴き交わす鳥たちの様子みたいにグロッケン(チェレスタかも)とフルートで始まります。全体的にウィリアムテル序曲による変奏曲って感じ。ウィリアムテルの引用が完全にモロなんですが、もうそんなことに拘りはなくなっているんでしょう。交響曲の常道の暗から明へとかも少しも考えてない、本当に明るく若々しい音楽です。全然これで最後って感じじゃない。必ずソロヴァイオリン使って来るなあ。最後のピッコロとか超絶技巧でしょ、これ。

第2楽章、一転してもの悲しいアダージョ。コラールの後、チェロのソロ入れてきました。ちょっと不思議なメロディーですが、非常に美しいですね。ホルンから少し明るい兆しが出てきました。ソロヴァイオリンの後のムチまで入るトゥッティの強奏。それに続くパーカッションの使い方がやっぱり現代的ですね。チェレスタどソロ。その後の弦奏がまた美しい。最後はティンパニとファゴット?のピアニシモで第3楽章につながります。

第3楽章、はいファゴット始まりでスケルツォ来ましたよ。もう絶対笑かそうとしてるでしょ、ショスタコーヴィチさん。いいタイミングでツッコミのウッドが鳴るもん。金管のグリッサンドも。コテコテですやん。パーカッションの楽譜とかどうなってるのか気になりますね。この連打のところとか。いや、天才ですよやっぱりこの人。スケルツォの天才。

第4楽章、短いコラールの後パーカッションと低弦のピチカートの序奏を経て始まる弦の旋律が本当に美しい。中間部、少し静まるのが溜めてる感じがビンビンする。最後仕掛けて来るでしょうきっと。低弦のピチカートが何か聞き覚えがあるんだけど思い出せない。はい、チェレスタ、ホルン。弦が分厚くなってきた。グロッケン。盛り上がってきたぞ、このまま来るのかな、いやまだここじゃない。きっとこの先がある。ほらスネアの後収まった。第一主題の再現、そうだったこの美しい旋律。チェレスタ。木琴。ああ、これはこのまま静かに終わりそう。弦の弱奏の上でパーカッションが時計のようにチクタク鳴る中チェレスタが最後に余韻を残して終わります。

各楽器のソロとパーカッションが目立つ曲でしたね。トゥッティが少ない。いや、もう最後はジャンって終わるぞみたいな感覚はなかったんでしょう。どこか儚い美しさに満ちた室内楽のような交響曲でした。

(解説を読んで)


ああなるほど、ウィリアムテル序曲はショスタコーヴィチが子供時代最初に好きになった曲だったんですね。そこから始めて、人生を振り返っている曲だと言われると確かにそうなんだろうなと思います。3連4連5連が同時に鳴るリズムクラスター?そんなの全然聞き取れませんでした。

あの第2楽章のチェロは12音全部使ってるわけですか。終わりのチェレスタはその反行形。第3楽章頭のクラリネットもそうなんだ。全然分かりませんでした。セリーみたいに無調な感じは全然なくって、むしろチェロやチェレスタは美しいとさえ感じたくらいですからベルクみたいな調性がある12音なんでしょうね。現代クラシックは私は全然ダメな人で、あれは数学的な規則性で組み立てられてて楽譜上は確かにそうなんでしょうが、具体的な音として聴いた時にそれが分かる人は少ないんじゃないですかねえ。どこか人間の生理を無視しているようなところがある。12音技法のシェーンベルクの弟子の二人、ベルクとウェーベルンで言えばショスタコーヴィチはベルクに近い気がします。聴く人のことを考えてくれている気がするので(いや、実はウェーベルンも好きなんですよ、極限まで凝縮されたストイックな感じとか。すごく短いので一瞬も気が抜けないし対話は成り立たないけど話を聴くことは出来るんです。あと初期作品が滅茶苦茶美しい)。

第4楽章冒頭のコラールはワーグナーの「ニーベルングの指環」の引用。はい、全く分かりませんでした。そういえばワーグナーって序曲しか聴いたことがない気がします。「トリスタンとイゾルデ」の引用もあったそうですが当然分かりません。何より驚いたのは中間部に第7番第1楽章の例のボレロみたいと言われている軍隊行進曲の引用があるということ。あれでしょ、低弦のピチカートでしょ。原曲は長調でこっちは短調でしかも主旋律じゃなくピチカートじゃないですか。クラシック・ファンの人は凄いですね、これ初聴きで分かるわけですか。分かって聴けたら楽しいだろうなあ。

自作曲の引用もしつつ、最後は人生が時を刻む中でチェレスタがその終わりを知らせるように余韻を残して鳴る。これは美学すら感じるカッコいい曲です。実際に亡くなるのは3年後でこの後も作品を作り続けているわけですから、作ろうと思えばもう一曲くらい作れたんでしょうが、自分の最後の交響曲はこれでいいと思ったんでしょう。そう思っておかしくない見事な作品だと思いました。私が言うのもなんですが、これはもっと知られてもいい曲なんじゃないかなあ。

さて、これで一区切りと言っているので最後にまとめ的なことを書こうかと思ったんですが、実はこの試みを始めた早い時期から交響曲ではないけどこれは是非聴いてみたいという曲を見つけていました。それを聴くために予備知識を入れないようにしていたところがあったくらいなんです。次にその曲を聴いて、それからまとめの感想を書きたいと思います。

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