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予備知識無しで初めて聴くショスタコーヴィチの交響曲の感想

ショスタコーヴィチの曲はこれまで全く聴いたことがありませんでした。スターリン政権下で生き延びるために「ブルジョワ的音楽」を禁じられプロパガンダ音楽を作ることを強制されていた人だというような思い込みがあったからで、確かバルトークからもそんな感じの批判をされていたと思います。それを今になって聴いてみようと思ったのは弟のiPodにやたらたくさんショスタコの曲が入っていたからで、「食わず嫌いせずに一度聴いてみなよ」と言われたような気がしたからです。

過去の名曲を若者が初めて聴くリアクション動画みたいなやつがありますが、あれのテキスト版みたいな感じでまず何の情報もなく曲を聴いています。その後で解説を読んだりして気になったところを聴き直す、というやり方をしています。

その1「交響曲第14番(ハイティンク/コンセルトヘボウ)」

(初聴き)
初めて聴くショスタコーヴィチがこの曲という人はレアなのかも知れません。本当に何にも知らないので、ライブラリの一番上にあったショスタコの交響曲を選んだだけです。なんと11楽章もあります。
第1楽章、最初のゆったりした弦の美しいけれど少し不穏な旋律の後いきなりバスが暗く重々しい調子で歌い出します。弦楽伴奏の歌ものなんですね。レクイエムみたい。第2楽章一転して激しい弦の動きの中ソプラノが強い調子で何かを訴えるようです。これは舞踊ですね。カスタネット、ムチの音がしてそのまま次の「ローレライ」に雪崩れ込みます。変わらず弦は激しい。あ、ソプラノとバスが掛け合いになる、何か対話になってるんでしょうか。鐘が鳴る。たぶん弔いの鐘でしょう。これ絶対「死」がテーマですよね。じゃあさっきまでのは死の舞踏かな?鐘の後はゆったりと落ち着いたソプラノ、バス、多分チェロの独奏。美しい。交響曲ってイメージでは全くないです。あ、今までで一番美しい旋律が出てきました。ソプラノとチェロかな。いつのまにか楽章が変わっててその美しいメロディーが「自殺」ってタイトルだとは。また鐘が鳴って、「心して」というスケルツォみたいな楽章になりました。木琴が特徴的な音列を奏でます。次の「マダム、御覧なさい」も木琴が鳴るので諧謔的な調子が続いている感じ。切れ目なく「サンテ牢獄にて」に続きますが、調子が全く変わります。低弦のピチカート、バスは時に怒り、哀しみ、諦念を感じさせる歌いぶり。この辺りが聞かせどころなのかな。一転またスケルツォ的な短い楽章を挟んで、儚げで美しい弦とバスの楽章が来ました。「おお、デルヴィク、デルヴィク!」。チェロとバスが歌い上げる様子は古典的な感じすらします。次は当然のように高弦とソプラノの楽章が来るわけですね。「詩人の死」。ロシヤで詩人ならプーシキンでしょうか。「結語」、ああなるほど今まで掛け合いはあったけどここで初めてソプラノとバスのデュエットになるんだ。しかもすごく短い。え、これで終わり?って感じ。全体としてレクイエムみたいな感じなんだけど、それを裏切る諧謔的な調子が混じっている。最後はまさしくそう。いわゆる交響曲じゃなかったなあ、弦楽と打楽器伴奏によるソプラノとバスの歌曲集って感じ。でも、全然飽きずに最後まで聴けました。

(解説を読んで)
正直最初にバスが歌い出した時はこの曲を選んで失敗したと思いました。曲は曲を聴くだけでいい、背景説明とかはいらない。標題音楽とかこの部分は~を表しているとかそういうのが苦手なので。でも歌が入っている以上歌詞の内容は無視できないし、何語で歌っているのか意味も分からない。これはもう仕方がない、解説を探して読みます。
シュルレアリストのアポリネールの詩が半分以上を占めていて、プーシキン全然関係ありませんでした。全部の詩が「死」をテーマにしていますが、アポリネールを使っている以上普通のレクイエム的なものになるはずがありません。いろいろ解説を読むとソビエト体制内での地位を確立して音楽家としての死からは自由になったものの(そうでなければシュルレアリストの詩なんて退廃的なものは使えなかったでしょう)体調不良で今度は肉体的な死を意識するようになって、自分の「死」についての考えを曲として表現しようとしたもののようです。自分で11編の詩を選び、そのうち外国の詩10編はわざわざロシア語に翻訳して使っているわけですから、もう他人に伝える気満々で作っていることになります。早くしないと自分が死んじゃうかもと思って入院中のわずか四週間でスケッチを完成させ、さらに初演を急いだせいで何かソリストと揉め事にもなっています。この時は遺言みたいなつもりで作ったのかも知れません(実際に亡くなるのは六年後です)。
いろいろな解説を読んで感じたのですが、ショスタコーヴィチが言いたかったのは「死」は安息などではなく、ただの終わりに過ぎないけれども、その終わり方は他人に強いられたものであってはならないということだったんじゃないでしょうか。病気や寿命で死ぬのは仕方ないけれども、戦争や社会主義に殺されるのは御免だと。それは初演前のリハーサルで「人生は一度しかない。だから私たちは、人生において誠実に、胸を張り恥じることなく生きるべきなのです」とスピーチしたというエピソードにも滲んでいるように思います。死ぬのが怖いんじゃない、ちゃんと生きられないことが怖いんだということです。
11の楽章はそれぞれの詩で分けているわけですが、ショスタコーヴィチ本人は四楽章の交響曲だと言っていたそうです。個人的にはこんな感じに分けられる気がしました。

1~3「ローレライ」の前半(鐘の音の前で分かれる)
3の後半~6(鐘、木琴が共通している、スケルツォ的な楽章?)
7~8(曲調はちがうけど詩の内容が怒りに満ちている)
9~11(バスとソプラノ、そして最後にデュエットで締め)

※初ショスタコ、割と面白いというのが正直な感想でした。次行ってみましょう。

その2「交響曲第1番(バーンスタイン/シカゴ響)」
(初聴き)
第1楽章、なるほど、短い動機を巧みに組み合わせたオーケストレーション。分かる分かるって感じの構成美。ソロとトゥッティの対比も見事だし、特に美メロってわけじゃないけどこれは唸りますね。
第2楽章、え?ピアノ入ってるやん。カッコいい、ちょっとバルトークみたいなメロディ。オケコンにこんな感じのところなかった?こういうの大好きだなあ。ピアノもコード補完じゃなくバリバリソロも弾いてます。最後はせっかくピアノがいるんだからオケの代わりにコード連打しちゃうぞみたいな終わり方。
第3楽章、オーボエが気持ちよく歌ってそれをチェロが引き継ぎ、トゥッティになる。タンタターンってベートーヴェンか。この動機でこの後ずっと紡いで行くつもりなのか?ここはこのまま悲しい感じで終わって終楽章へのフリにするのかな。それにしてもソロヴァイオリン歌いますね。しかしここまでタンタターン推ししてくるとは思いませんでした。構成美ですね。
そのまま切れ目なく第4楽章来た!これはフィナーレ来ますよ。スネア、クラリネット、低減から盛り上げて、そうピアノが2楽章だけのはずがない、当然ここにも入ってくる。じわじわくるね。いや、一気に行っちゃう? ああ、ソロヴァイオリン、やっぱり一度落ち着きますね。緩急付けてきますね。ああ、木管きっかけでトムとジェリーの追っ駆けっこみたいな大騒ぎが始まって今度こそフィナーレか、いや全休止。ここでティンパニソロが、しかも例のタンタターンが来るんですよ。3楽章であれだけやってまだやり足りなかったんですかね?泣きのチェロがゆったり歌うところに木管がタンタターンで絡みながらじわじわ盛り上げていってトゥッティ、パっと道が開けたようにそこから先はもう止まらない。ピアノも一緒に一気呵成に頂点まで上り詰めるフィナーレ。

(解説を読んで)
1925年ショスタコーヴィチ19歳、サンクトペテルブルク音楽院の卒業制作がこの曲。オーケストレーションが緻密に作りこまれているのはそのせいもあるんでしょうかね。卒業制作ですから尊敬していた教授にここはこう直しなさいと指示されたりもしてますが、自分の感性を信じてそれには従わないわけですよ、この若造は。そして国内初演が大評判でそれも納得の出来栄えです。この時付いたあだ名が「現代のモーツァルト」。若き天才くらいの意味しかないんだと思います、モーツァルトには全く似てませんから。
当時としてはかなり前衛的だったんじゃないかなと思います。バルトークのオケコンの20年くらい前の曲ですが、第2楽章は既にちょっとそんな感じの匂いがしています(私以外にそんなおかしなこと言っている人はいなさそうですが)。でも理解を拒むような猛々しさはない。天才が等身大の自分をその若さとともに素直に表したとでも言うんでしょうか。広く多くの人に受け入れられる音です。初演のアンコールはこの第2楽章だったそうです。
全くの個人の感想ですが、ショスタコーヴィチはどうしても最後にティンパニでタンタターンをやりたかったんじゃないでしょうか?完全に裸ソロでティンパニがメロディーを叩くとかあまり聞いたことがないです。そこから逆算して前の楽章で耳に残るようにあれだけタンタターンを繰り返した。初めてこの曲を聴いた人(つまり私とかがそうですが)でもあのティンパニは「ああこれはさっきのあれだ」って分かる、それをやりたかったんじゃないかというのは考え過ぎでしょうか。

※二曲目にしてショスタコーヴィチ普通に天才じゃんって感想になりました。1番は「アシュケナージ/ロイヤルフィル」のも入っているので後で聴いてみようと思います。

その3「交響曲第7番(バーンスタイン/シカゴ響)」
(初聴き)
第1楽章、これは一言カッコよくてロマンティック。バーンスタインで、シカゴ響で、その上ライヴだからですかね。すごく明快で鳴りがいい。楽章の頭からこれは売れるって感じがビンビンします。ショスタコーヴィチの中でも絶対人気曲でしょう。ちょっと「展覧会の絵」っぽい感じもします。途中から軍隊の行進みたいなのが執拗に繰り返されるんですが、最後あんなに盛り上げて来るとは思いませんでしたね。シカゴの金管が燃えてます。この楽章は長さも内容も並の交響曲一曲分はあります。多分三つのパートで出来ていて最後はそれまで出てきた主題が静かに再現される形で終わります。
第2楽章、弦楽合奏の導入部の後オーボエが憂愁を帯びた、でもどこか明るさもある旋律を気持ちよく歌ってちょっと協奏曲みたい。途中から曲調が変わってトゥッティになるとああスケルツォの楽章なんだと思いますが、これも軍隊の行進なんですかね。それにしては明るい。それが収まるとさっきのオーボエが今度はファゴットに変わって再現されるんですが、なんだか寂しい感じになっちゃってて、それを引き継ぐ弦も最初の導入部を再現した後、静かに消えるように終わります。
第3楽章、管も加わったパイプオルガンのような導入の後、なにこの弦の美しさは!ベートーヴェンかよ。フルートソロの後テンポアップ、管も加わって勇壮な感じになって盛り上がるけどこの楽章も長い。このままでは終わりません。フルートソロの再現部はこれヴィオラかな?まだこの楽章の半ばでこれですよ。もうここで終わってもいいじゃんってところで最初の美しいやつがまた来るんですからね。そこからまたテンポアップして多分ちょっと暗い感じで終わるのかな。それにしても金管の鳴りがすごい。ああ第4楽章はこのまま雪崩れ込んでいくんだ、3楽章の終わり盛り上がり過ぎちゃってますもんね。そうか。この弦のところからが本当の4楽章の始まりじゃないのかな。「運命」みたいな音型が繰り返されて、もう絶対最後盛り上げて来るって分かっちゃいますね。もうベートーヴェンでしょう、これは。このまま絶対に決めてやるって感じがすごい。最後の残響音まで凄い。

(解説を読んで)
「レニングラード」って標題が付いてることも知りませんでした(アルバムジャケットに書いてあるから見ろよ自分)。そしてやはり人気曲でした(ついでに5番も人気曲らしいという余計な情報も知ってしまいました)。これは正直解説はなくてもいい名曲だと思います。プロパガンダ交響曲だと言われればそうなんでしょう。本人が「私は自分の第七交響曲を我々のファシズムに対する戦いと我々の宿命的勝利、そして我が故郷レニングラードに捧げる」とか言っちゃってますからね。でもその「ファシズム」が「ナチス」を指していると思われた頃はプロパガンダと批判され、「ナチスとともにソビエト体制」を指していると解釈が変わると再評価されるみたいなのは、どうなんでしょうね。曲は何も変わらないのに。比べれば1番の方がまだ前衛的で、7番はロマン主義的で分かり易過ぎる気が正直しました。しかしそれを大衆迎合的だみたいに批判するのもどうなのかと思うのです。曲は曲だけでいいといつも思うのはそういうことです。あ、でも2楽章のオーボエの再現はファゴットではなくバスクラリネットだと分かったので、調べたのは無駄ではありませんでした。

※三曲目で凄いのに当たりました。この曲の唯一の欠点は長過ぎることです。もう一度頭から聴こうと思うと覚悟が要ります。ちなみに二回聴きました。バーンスタイン/シカゴは明朗で変なしがらみが感じられず、そして迫力が素晴らしいです。たぶん、というか絶対名盤です。

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