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井波律子『中国の五大小説(上) 三国志演義 西遊記』岩波新書

 大学1年生を対象にしたゼミを担当していて、感想文という形で学生さんに書く練習をしてもらっている。今後のレポートや論文提出を前に、書くことに慣れてもらおうという趣旨だが、私も書く練習としてnoteを始めた。実際にやってみると読書も久しぶりだが、その感想を書くとなると咀嚼・推敲(まだその域には達していませんが)という作業があったことを、これまた久しぶりに痛感している。読み終わっただけでは、言葉にすることは難しい。当たり前か。でも、読者が多い訳でもないので(咀嚼はそこそこに)まずはいい加減でも書いてみようと思う。

 この本は、『三国志演義』と『西遊記』について紹介しているのだが、今回は曹操つながりで前者について書く。『三国志演義』は、

「宋代(960-1279)から元代(1271-1368)にかけ、町の盛り場で講釈師が聴衆を前にして語った連続長篇講釈の『三国志語り』(中略)を母胎とし、これを集大成して完成度の高い長篇小説に仕上げたものである」。
「白話(口語)長篇小説として成立したのは、14世紀中頃の元末明初と推定されるが、長らく写本のかたちで流通し、『演義』の最古の版本は明の嘉靖(かせい)元年(1522)」(本書「はじめに」iii)に刊行されたという。

 魏(220-265)から禅譲を受けた西晋(265-316)の頃に書かれた正史『三国志』とは1000年以上の開きがあり、しかも小説であるから『三国志演義』は史実ではない。
 ちくま文庫で『三国志演義』を翻訳している井波先生が、その内容を解説してくれる本書だが、私の興味は「曹操の描かれかた」にある。井波先生は曹操について、こう書かれている。

「劉備があくまで正統なる『君主』として描かれているとすれば、それに対抗する演義最大の『悪玉』として登場するのが魏の曹操です」(本書17頁)
「道化者、悪戯者、ペテン師、詐欺師などの要素をあわせもち、アンチ・ヒーローとして既成の秩序に揺さぶりをかけ撹乱する存在を『トリックスター』と呼びますが、曹操こそは、まさしく演義世界の大トリックスターです。」(本書19頁)

出た!
なんと言っていいかわからないが、このトリックスターこそ、私が愛してやまないものらしく。井波先生からこの言葉で出てきたことに驚く。思えば、30年以上前に書いた卒論のテーマが「コンメディア・デラルテ(イタリアのアドリブ仮面芝居)」。この芝居の主人公アルレッキーノこそ、道化者、悪戯者、ペテン師、詐欺師などの要素をあわせもつトリックスターそのもの。偶然だが、私はトリックスターについて、ずっと論じたかったのであった。嗚呼、山口昌男先生!(それとも、これは偶然ではないのだらふか・・・驚!)

アルレッキーノ(ミラノ、ピッコロ劇場HPより)Teatro Piccolo di Milano

 コンメディア・デラルテでアルレッキーノが登場すると、観客は何かやってくれる!とワクワクした気持ちになる。そもそも彼の服装からしてタダモノではない。絶対に変な人なのだ。口を開くと声もおかしいし、イタリア人によればイタリア語もおかしいらしい(ベルガモ方言がひどい)。動きも挙動不審で落ち着きがなく、悪い人ではなさそうだが、信用すると痛い目にあうこと請け合いである。私は東京とミラノでピッコロ劇場のコンメディアを見たが、言葉がわからなくても、素晴らしい身体表現と雰囲気で楽しめた。

 同じように「三国志語り」でも、講釈師が曹操が登場するたびに、観客が盛り上がったであろうことは想像に難くない。そして『三国志演技』では、劉備、曹操の他にも、関羽、張飛、諸葛亮など蜀のスターを軸に、キラ星のごとく登場する多彩な登場人物に、喝采が浴びせられたことだろう。井波先生は、後半でこうまとめていらっしゃる。

「ちなみに、社会が根底からくつがえされる、極め付きの過渡期には、ユニークで面白い人物が続々と出現するのが習いです。後漢末の乱世からはじまった三国志の時代は、まさにそうした極め付けの過渡期だったでしょう。」(本書151頁)
「何度となく押し寄せてきた歴史の大きなうねりを乗り越え、英雄たちの物語が今日に至るまで多くの人々をひきつけてやまないのは、あらかじめ限られた時間をめいっぱい生きることの意味を、いつの時代にも教えてくれ、考えさせてくれるからかもしれません。」(本書169頁)

 読書というのは、連鎖するから面白い。ここから『三国志演義』に行くのか?『山口昌男』に回帰するのか?『ストーリー論』に行くのか?悩むところでありんす(笑)

 

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