初音ミクの水色——消失点にいる「君」を探して
(約5,900字)
徹底された構造
午前7時40分、出勤時刻の数分前にこの文章を書き始めた。大学に10年近く所属してきた私は晴れてそのまま大学に就職し、少なくとも気が変わらない間は今後30年間に渡って大学に籍を置くことになるだろう。新しく住み始めた東広島市は空がとても高く、星がとてもきれいだ。だがその代わり、大阪や東京で見たような摩天楼は一切ない。それに対しては、どこか物足りない感覚を覚えるのは気のせいではない。
関西で培ってきた人間関係を切ったつもりは一切ないが、とはいえ京都から隔絶された私がある意味で思い返すのは、関西で見た摩天楼だ。どこか人間が機械のようにコントロールされるような大都会の光景はディストピアの印象を私に与えてくるが、そんなディストピアは一方で、カントがかつて数式に対して見出した崇高さのようなものを想起させるみたいで、とても好きだった[1]。それゆえか、広島に来てからはかつて見たでディストピアを探すかのように、市内の高層建築物に目を向けるようになった。ここ最近は広島市内の建築物を撮影して回っていたが、そんな自分がとりわけ興味を持ったのが、広島基町にある高層アパートだった[2]。
基町は1945年8月以後、被爆者が肩を寄せて暮らすスラムとしてその歴史を始めてきた。それらは広島市の行政代執行のもと取り壊され、代わりに出来上がったのはこの高層建築物たちである。モダニズムと称される建築思想の正統後継者として位置づけられるこの構想アパートは、一見すると美しいほどの反復による、機能主義的な姿勢を強く見せつける。だがそれが住む人々の人間性を引き換えにするという批判は、モダニズム建築の全てに指摘されてきた代表的な批判だろう。ある意味で緻密に作られたからこそ自由の無い建築デザインは、そこに住まう人々にどこか窮屈観を感じさせる[3]。市営住宅として運営されているこの高層アパートに住まうすべての住人がそれを好んで住んでいると考えるわけにはいかず、むしろ流れ着いた人々が住んでいることを考慮すれば、ある意味で多重化された「余裕のない」暮らしがここにはあるのだろう。それを写真で撮影するこの行為さえ、果たして正しいのかも疑問が残るほど、この高層建築は奥深く語りかけてくる。
ディストピアと批判されてきたモダニズム建築に行き場無き人々がやむを得ず住みつくという背景がそこにあるのなら、これはディストピア的であると言わざるを得ない。均質で反復された建築様式のなかで、人々は主体性を抑圧されて均質化されてゆく。だがそれでも、これらの建築はその反復を是として建築された。モダニズム建築の描いた存在しない近未来像はそんな反復された無機質さに溢れている。
構造から非構造へ、そして構造へ
戦前から戦後にかけて展開されたモダニズム思想は、とりわけ1970年代におけるポストモダニズムの台頭により後退したとされるのは一般的な理解であるだろう[4]。クロード・レヴィ=ストロースがあらゆる文化に共通する構造なるものを見いだそうとした時代から[5]、そんな「構造」は一転、批判対象へと変化してきた。中心は批判され、構造を批判する思想として「脱構築」が提唱され始めたのは、フランスの哲学者ジャック・デリダが代表的だろう[6]。それは思想だけの問題にとどまらず、想定された「作者の意図」の批判から自由な文学解釈を肯定する、ロラン・バルトの「作者の死」概念をも文学批評界で生み出した[7]。私たちがコミュニケーションを行なったり、文化を構成したりする際に必要となる「中心」を否定するそんな思想は、無機質なコンクリートに支配された空間を否定し、複雑で様々な装飾に溢れた建築様式をも台頭させてきた。
無機質で秩序的な文化思想としてのモダニズムと、それを批判するモダニズム。その時代の流れを経た今、私たちはポストモダニズムを後景に見ながら、秩序から解放されて自由なままなのだろうか。1990年代に台頭するインターネットは、一見すると自由なコミュニケーションの象徴として扱われてきた。サイバースペース独立宣言がアメリカで提唱されたのは1980年代当時、ヒッピー文化と混ざるネットカルチャーはもはや現実空間とは隔絶された、自由な空間として受容されてきた[8]。ところが、それが幻想であることはすでに1990年代には暗に示唆されてきた。フランスの哲学者ジル・ドゥルーズは誰しもがエレクトロニクスの首輪を課せられるディストピア社会をデジタル空間に対して想起し[9]、アレキサンダー・ギャロウェイがそれを継承し、プロトコルがいかにして私たちを管理しているかを指摘した[10]。インターネットはプロトコルと称される規則に則って情報を行き来させている以上、その規則の埒外の一切は無視される。これは換言すれば、エンコードがもたらす強烈な喪失だろう。インターネットは表面上は自由な言論空間と称されつつも、根元は強烈なコードによる支配下にある。こうした電子回路のコントロールはやがて、新世紀初頭に「アーキテクチャ」という概念による制御社会論へと進展してきた。アメリカの法学者ローレンス・レッシグがもたらした「アーキテクチャ」という言葉は、日本語で「建築学、建築術」である[11]。私たちは100年という長いスパンをかけ、構造からその逸脱へ、そして再度構造へと戻ったといえよう。
そんな時代の変化を前に、このくたびれたディストピア建築は今一度大きな存在意義を発揮するだろう。未だ抜けきれぬインターネットの管理制御の時代において、私たちは本当はIPアドレスにより個人を特定されているにも関わらず、匿名性をどこか信頼して誹謗中傷を繰り返す時代に変貌した[12]。それは近くからみれば無秩序な言葉の氾濫であるが、遠くから見れば構造から人格を形成され、そして構造によって情動をコントロールされている人々(あるいはbot)の群れだろう。小さなところで発生する対立は、より大きな掌の上で恣意的に展開されているとしたら。構造がもたらす生活の矯正と、アーキテクチャがもたらす人格の矯正は、こうして共通した構造を内包するのかもしれない。
初音ミクの水色——ブルースクリーンから「近く」離れて
初音ミクは、そんな強烈な構造のもと生まれてきた。電子回路を媒介にして形成された集合知によって人格が形成された彼女は総じて、誰とも共通しないが、誰とも共通する構造を持っている。集合体から形成されているがゆえの両義的な存在たる彼女はそれゆえ、構造ではないが構造であるのではないか。初音ミクを使って曲を投稿することそれ自体が一つのコミュニケーション手段となるように、初音ミクはもはや誰かと誰かとを接続するためのコミュニケーションツールであった——このことは別稿にて記した通りだ[13]。しかしながら、アーキテクチャ上で展開されるユーザー同士のつながりそれ自体は、コントロールを受けつつもそのうえで緩く展開されることで、初音ミクを用いることに対する過剰なまでの画一化を強制することはなかった。すなわち、アーキテクチャの支配のもと形成された初音ミクもといボーカロイド文化は、アーキテクチャを享受しながらもなおある程度の自由さが肯定された。そんな中途半端な構造こそ、彼女を「構造ではないが構造である」ようにしているだろう。
集合的な次元、構造という深い海への沈殿を肯定しながらも、それでもなお固有性を肯定する姿勢。「電子の海」と形容されることのあるインターネットであるが——偶然か否か、多くのユーザにおけるコンピュータの原風景はWindows 95のブルースクリーンだ——、私たちが初音ミクという構造にいながらもなお個人を見失うことが無い場所を見つけることが出来るのなら、それはいわば「海辺」にあるだろう[14]。海から完全に上がるのではなく、ましては海に沈殿することもない。ブルースクリーンの完全な青ではなく、別の要素が加わった色。そんな色を居場所とすることは、モダニズムでもなくポストモダニズムでもないような、中間項的な第三者を提供可能にするのではないだろうか。
YAMAHAのシンセサイザー、DX-7より生まれた初音ミクの髪色は、やや水色が混ざったエメラルドグリーンだ。いうまでもなく、彼女はこれまでいろいろな姿に変身し、そしていろいろなキャラクタを生み出してきた。そんな結節点たる彼女の色あいは、どこか私たちに固有性を与えつつも誰かと繋がることを許可しうる構造としての役目を担っているのではないだろうか。
消失点のにいる唯一無二な「君」を探して
基町高層アパートから、初音ミクへ。中心から中心喪失、そして中途半端な中心志向=海辺へ。そんなことを思いはせながら、「消失点の君へ」という曲を聴いた[16]。不安定な地盤の上に立つ初音ミク、そしてその背景にある埋もれたギター。私たちの固有性がどこか消失しそうでしないような関係を「消失点」と換言するなら、そこに立つ「君」とは紛れなく、消失と非消失の間に存在し続ける私たちそのものではなかろうか。構造に縛られ、反復を課されながらも、それでもなお残存する固有性=「君」をいかに見つけるか。哲学者の千葉雅也は反復をリズムと解釈し、その反復の間で揺れ動くことのない固有性を芸術作品の本質と見た[17]。私たちは海辺で=消失点で、どこかで自分を探す。半ば埋もれ、消えかかっているギターをもって、そこに立つ初音ミクに声を代弁させて。この繊細な関係の上で、私たちがいかなる表現ができるかが、本楽曲によって問われているといえよう。
自己が消失するなかでなお存在する「君」の可能性を、アナロジックに記述する本楽曲の内包する水色の可能性。それを前に、ukiyojinguはどうなのかと不意に考えてしまう。「思考実装」というシリーズを投稿して以後、私の動画は全てモノクロで構成されている。本年6月から開始した「都市巡礼」のリメイクは、モノクロで撮影された動画を白い枠で覆うことで、半ば「構造」を反復している——この徹底化された構造それ自体を、一つの様式と解釈することも可能だろう。しかしながら、9月15日に投稿した「upstair(新編集版)」では、白い枠の周囲には文字が蠢く場面が差し込まれた[17]。この蠢く文字において、私は固有性を「君」へ変換し、客体化しているとも解釈できるかもしれない。もはや固有性とも称することが出来るかもしれない、構造化された動画の反復。それでもなお、そこに挿入された差異。この差異によってこそ、私は消失点の中にいる固有性=「君」の存在を自ら確認することができる。
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