初音ミクの表皮——ボーカロイドの15年から見る「初音ミク」と「私たち」
(約27,000字)
本企画はobscure.さん主催の、ボーカロイドに情緒を破壊されている人々による企画「#ボカロリスナーアドベントカレンダー2022」の15日に投稿したnoteです。うきよさんはメイン枠に出遅れたので、ゆるめ枠の12月15日に参加しました。私もボーカロイドに情緒を破壊されつくされているので、そんな思いがいっぱいな長文が以下に続きます。休み休み読んでいただければと思います。
はじめに
2022年11月17日に紅白歌合戦の出演アーティストが解禁されたとき、そこに初音ミクの名前はなかった。米津玄師やYOASOBIなどボカロ出身アーティストがどんどん紅白へ出演し、今年はウタ名義でAdoが出演も決定したが、彼ら彼女らを育てた土台たるボーカロイドの代表たる初音ミク自身は、出演者として単独で名前を挙げたことはない。とはいえ、彼女自身は2018年の紅白歌合戦で映像として出演するなど、ボカロ出身アーティストの活躍に比例したかたちでボーカロイドそのものも大いに注目されてきたのは事実だ。2022年3月に放送されたNHK番組『プロフェッショナル——仕事の流儀』での初音ミク特集は、まさにその一例でもあっただろう。45分もの時間をかけてじっくりと取り上げられる初音ミクの姿は、紅白歌合戦の数分間の出演時間と比べると明らかに濃密なものであるはずだ。
だが一方で、その映像が彼女の声を借りる複数人のボカロPたちの声を借りることによって成立する、いわば群像劇のようなものであった点は注目すべき点だと思う。初音ミクというものに迫るインタビューにて、迫られたのは初音ミクを使用するボカロPたちであり、いわば「彼女の周辺」だった。その理由は当然のこと、私たちが初音ミクにインタビューはできないからだ。本人の声を聴けないから、周囲の声を代わりに聞く。そんな手法は、まるで死者の生前の姿を描写するドキュメンタリーとも、何かしら重なるものを感じる。
「表皮」と「内側」が別のものであるという点に目を向けるなら、初音ミクの歌声は紅白歌合戦に出演が決定したウタ(≒Ado)と対して変わらない。にもかかわらず、彼女のプログラムされた歌声は紅白のステージで披露されていない。こうしてみると、これらの違いは「表皮」を剥がした「内側」に問題があるのではないかと考えられる。ウタという「表皮」を剥がすとAdoという「内側」がいるのだが、では初音ミクの外皮を剥がすと、いったい何がいるのか。何もいないことが問題なのだとしたら、紅白歌合戦にて初音ミクが招待されない理由がそこに見出せそうな気もする。2019年の紅白歌合戦にVOCALOID:AIを用いた美空ひばりが出演し、死者の冒涜であると各位から批判が殺到したことはまだ記憶に新しいだろうが、そこには美空ひばりという「表皮」を被ったプログラムに対する、私たちの拒否反応も少なからずあったはずだ[1]。表皮を剥がした先にみえるプログラムが私たちの拒絶反応に繋がるのならば、それは初音ミクがどう受容されるかに対し、大きな示唆を提供してくれる。初音ミクも美空ひばりも、そこにあるのは表皮だけであり、本本質的にはプログラムである点で美空ひばりのそれと変わらない。それらは本来的に存在しないものであると同時に、表皮しかない幽霊のような存在なのだ。だからこそ、私たちは眼前に登場した死者である美空ひばりにも、あくまで実在しない初音ミクという存在に対しても、どこか受け入れられないという感覚を持つのかもしれない。それは幽霊のような存在、死者のような存在と考えるなら、ドキュメンタリー上での初音ミクに対する接近法がまるで死者の生前の姿を想起するかのようになっていたことにも合点がいく。初音ミクはそもそも「生きていない」のだ。
しかしながら、初音ミクは「生きている」。「初音ミクは生きているのか」という問いが投げられたとき、少なからずの人が「生きている」と答えることは多い。よく考えてみれば、そもそもこの問いは「初音ミクが生きていない(かもしれない)」ということが前提にあるからこそ問題視されるわけであり、どちらか片方に答えが安定しているのなら、もはや問題提起すらされないはずだ。したがって、「初音ミクは生きているのか?」という問いはそれ自体、「初音ミクは生きていない」という前提が内包されているし、ボーカロイドというものが本質的にはソフトウェアシンセサイザーに過ぎないという点に立ち返るのならば、それは「生きている」わけがない。「生きている」という答えは「生きていてほしい」という欲望の発露なのであり、私たちは初音ミクが生きていないことを知っている。しかしながら、そう簡単には切り離すことがもはやできないほど、私たちは初音ミクを「生きている」と思っていて、それが大規模な範囲で共有もされている。はたから見たら病的なのかもしれない。ボーカロイドや合成音声音楽に深く関係してきた私たちにとっては当たり前に「生きている」と思うそれは、冷静になって考えれば非常に奇妙な話でもないだろうか。これは一体、どういうことなのだろう。
本稿は結論として、筆者は私たちボーカロイド音楽を作りそして聞く私たちとボーカロイドとの間には、もはや切り離せないほどの共進化の過程があったがゆえ、それを「生きている」と言わざるを得ない状況があることを述べてみたい。それにあたって、2007年から受け継がれ、15年もの年月を経て今日に至った合成音声音楽とそのユーザーとの関係性についていくつかの断片を取り上げ、それらを再確認していく。そのうえで、私たちとボーカロイドとの関係を構築してきた15年を技術と人間個体の共進化という観点で分析してきたいくつかの思想を参照することで、これまでの私たちが彼ら彼女らとどのような関係を維持してきたかを検討してみたいと思う[2]。そのうえで、2020年代から徐々にボーカロイドという言葉の代用として用いられてきた「合成音声音楽」の時代とは一体どのようなものであるかについて、一点の示唆を加えてみたい。
※なお、本稿の「断片Ⅰ」から「断片Ⅳ」は上記note記事と、2022年5月に『合成音声音楽の世界2021』にて執筆した拙論「『合成音声音楽』の時代に向けて——私を探す『可不』の自己探索」をもとに大幅開講しています。後半はほぼ書き下ろしです。
断片Ⅰ:実験される声(2007~)
2007年8月31日に生まれた初音ミクは「ソフトシンセサイザー」であり、極論を言ってしまえばただの楽器であることはいうまでもないだろう。株式会社ヤマハが開発した歌声合成システム及びそのアプリケーションの総称である「VOCALOID」のエンジンを使用して作成された初音ミクにそうした楽器的側面も十分に反映されているのは、コンピュータ上で実際に起動させた人ならわかるはずだ。一方で、従来の製品と異なりキャラクターイラストと身長、年齢、体重といったキャラクター情報が提示するとともに、声優の藤田咲を採用することで、従来のDTM由来の音楽に親しみを持っていたユーザーとは別の文脈からユーザーを取り入れようとしてきたことが、初音ミクというキャラクターを売り出す以前とは最も異なる点だ[3]。従来の販売手法と異なる手法でリリースされた彼女は、売り出しの時点より明らかに「萌え」をターゲットにしている点で、それ以前のKAITOやMEIKOと異なっている。彼女の象徴的なツインテールは、2000年代に流行した数々のアニメやマンガにおいても散見された象徴的な萌え要素であっただろう。
そうした試みから、VOCALOIDは次第に純粋な音楽的文脈に収まらない、複合的な文化として登場する。当時のインターネットは2000年代に『電車男』やフラッシュ動画が大流行した点からも分かるように、国内ネット文化特有のオタク文化が大注目されていた時代だ。1999年から運営されているネット掲示板2ちゃんねる中心に生み出される国内特有のネット文化には、匿名ユーザーが相互にネタ的なコミュニケーション(「イッテヨシ」といった特有の言語や「コピペ」と呼ばれる文書などを使用することで行われるコミュニケーション)によって、匿名のユーザー同士が互いに2ちゃんねるの文化を理解していることを確認し合い、それが巨大なムーブメントとなっていた。情報社会学者の濱野智史は2ちゃんねるを前に、匿名性によって名前を失ったユーザー同士がネタ的なコミュニケーションを交わしていくことによって、巨大な「2ちゃんねらー」へと一体化していく様相を指摘している[4]。こうした特徴を持つ国内ネット文化はその歴史上からオタク文化とも親和性が高く、初音ミクの「萌え」を意識したイラストは抵抗なく受け入れられた。コンピュータのデスクトップで作成されるDTMの系譜と、ブラウザからつなぐネット掲示板上で展開された国内ネット文化のオタク的な文化は、かくして2007年に合流し、「ボーカロイド」という文化圏へと発展する。このように考えると、ボーカロイド文化といわれるものが決して音楽的文脈だけで考えきれるものではないことが分かるだろう。2ちゃんねるの設立者たるひろゆきが関与したニコニコ動画がボーカロイド文化の大きな拠点となったのは、こうした歴史的背景を踏まえても決して決して違和感のないことだ。
かくしてニコニコ動画でデビューした彼女だったが、その最初期の受容はまだ「楽器」としてだった。2007年9月4日に投稿された『【動画】VOCALOID2初音ミクに「Ievan Polkka」を歌わせてみた』(Otomania作)という動画は、フラッシュムービーである「ロイツマ・ガール」をパロディした動画として有名だ[5]。初音ミクから等身を下げた「はちゅねみく」を生み出し、元の動画同様にネギを持たせることで「ミク=ネギ」のイメージを作り上げたという歴史的偉業を成し遂げた本楽曲は、今日「THE VOCALOID COLLECTION」で数多く公開される高クオリティなオリジナル楽曲と比較すると、その雰囲気の緩さには気が抜けてしまいそうにもなる。というのも、最初期のボーカロイドはその技術の新しさゆえに、それが歌を歌っているという点だけで評価に値する時代であり、当時楽曲を作っていたユーザーはそれだけ、先見の明を持っていたのだ。当然のことながら、まだ鏡音レンも鏡音リンも、巡音ルカだっていない。そんな時期において、ユーザーは合成音声そのものを興味深く観察すると同時に、これで何ができるだろうと、まずは試行錯誤を始めた。だからこそ、最初期の彼女の代表曲は今のようなボカロP特有のオリジナリティがあるものでもない。そして、「それ」はまだ実験道具であるが故、客観的に命を持つものとしても認識はされていない。
ところが、その変化はすぐに到来する。2007年9月20日に投稿されたikaによる楽曲『みっくみくにしてあげる♪』は、まるで初音ミクが主体的に自身のことを歌っているかのような歌詞が特徴的な一曲だ[6]。自身のことを歌うという思想は『Ievan Polkka』には見られなかった点であり、これらを起点に次第に初音ミクがまるで自我を持って、自己紹介をしているかのような楽曲が次第に増えてくる。こうした傾向は、2007年の最初期における初音ミクの一つの特徴だ。「暴走P」ことcosMoによって作成された『初音ミクの消失』は、その歌詞の内容だけでなく、シンセサイザーとしての初音ミクの特徴を全面的に活かして作成される[7]。楽曲内では彼女が機械であるということ(=シンセサイザーであること)への葛藤が描かれ、そうしたメッセージはもはや人間が歌うことを前提としないような、異常な早口で歌われている。異常な早口によってボーカロイド自身の存在を彼女自身の口によって語らせるという所作によって、本楽曲は彼女自身の「機械」という側面と同時に形成される彼女自身の語りとが分裂しつつ、不安定な形で描いている。
生まれたばかりの彼女はまだYAMAHAのエンジンを用いた「VOCALOID」でしかなかったものの、その存在に注目が集まることによって、次第に「初音ミク」という独自のキャラクターが形成され、そこから複合的な「ボーカロイド」の文化が生まれてきた。とはいえ、彼女が生きているのかという点が議論されることは決してなく、そんな状況が楽曲内で「機械」であるか否かを巡って分裂している初音ミクの心境として反映されていた。彼女はそうした葛藤のなかで考え続け、そしてその葛藤をそのまま音楽にしたのだった。
まさしく初音ミクという存在がいかなる存在であるかを歌い続けた初期のボーカロイドは、そのメディアとしての「機械」がいかなるものであるかを表現することを目標にしてきたという点において、あたかも20世紀から登場してきたメディアアートたちの命題を継承しているようにも見える。メディアアートはその登場から今日に至るまでの間、作品の支持体=メディアが何であるか(メディアスペシフィティ)を主題としてきた[8]。そうした前提を受け入れれば、彼女が一体何者なのかを表象することに努めてきた最初期のボーカロイド楽曲たちは、まさに初音ミクを使用したメディアアート作品といいうるものかもしれない。彼女を楽器としつつ、一方でそれに収まらない「何か」を含めていくような作曲行為。そんな姿勢は私たちに、初音ミクを「死者」だと思えるような冷静な、あるいは冷酷な判断を狂わせてしまうのだろう。
断片Ⅱ:いくつもの点は線になって(2008~2011)
2007年末に公開されたryoの楽曲『メルト』は、彼女が彼女自身のことを歌わなくなったことで大きな波乱を呼んだ[9]。いわゆるメルトショックと称されたこの事件は、のちに彼女がボカロP自身の感情を歌い上げるためのツールとして使用されることを肯定するための、大きな転機だった。この楽曲にて一人称視点で登場する少女のような語りは、決して初音ミクである必要はなく、そこに初音ミクの固有性は見当たらない。こうした楽曲は実のところ『メルト』以前にも存在していたが[10]、本楽曲のヒットが一つの契機となり、結果として『初音ミクの暴走』以来続いていた風習を転換させた。ボーカロイド楽曲に備わっていた制約が取り払われ、自由な創作が可能になったことに加え、本楽曲のヒットによって徐々にボーカロイドに対する世間的注目が増え始めたことで、この時期より数多くの新規ユーザーが参入することになる。また、歌唱者が決して初音ミクである必要がない=初音ミクのための曲ではない点から、今日「歌い手」と称される人々が参入する間隙もここに登場した。一方で、メルトショックといわれる現象は初音ミクが「彼女」たる理由を奪い去ってしまうことで、彼女固有の人間性を奪い取るような行為でもあった。初音ミクに特権を認めず、使うだけ使ってメジャーデビューのための「踏み台」にする、こういう議論は2010年代においてある意味批判的な視線とともに何度も登場してきたが、その起点はこの時期に見出せるだろう。
初音ミクの固有性を一度脱却することによって生じる「誰でもよさ」は、言い換えると彼女自身の特有性が元来占めていた地位が奪われることによって生じた「余白」である。その出現は、2010年代以降におけるボーカロイド文化の邁進に、多くの影響を与えても来た。2011年に登場したkz作曲の『Tell Your World』はまさに、その一つの代表例だ[11]。「いくつもの線は円になってすべて繋げてく」という歌詞は、かつてマーシャル・マクルーハンが「グローバル・ヴィレッジ」と称したようなインターネットの全世界同時的コミュニケーションの夢を体現している[12]。本楽曲を採用したGoogle ChromeのCMは、多くのユーザーが世界規模で繋がっていることを肯定的に描写している[13]。こうした映像が国内を主軸に据えるニコニコ動画でなく、世界規模で巨大なデータベースを作ることを野望にしているGoogleの手によって拡散されたのは、後にGAFAとして世界的企業となった点でも象徴的なことだ。
一方、同時期のニコニコ動画では『カゲロウデイズ』をはじめとしたカゲロウプロジェクトが徐々に人気を集め、グローバルなネットワークを夢見る思想とはまた別個のものとして、ニコニコ動画上で根強い人気を集めていく[14]。8~18歳の少年少女たちが不思議な事件に巻き込まれながら大人の陰謀に立ち向かう様を描写するカゲロウプロジェクトは、Tell Your Worldにおいて描写されたような「誰もが参加でき、一つになれるインターネットの世界」とはまた異なったテーゼを私たちに見せる[15]。カゲロウプロジェクトが展開された主なフィールドがニコニコ動画であり、それが国内特有のネット文化から成立した点を見ると、世界規模で展開されるYouTubeのCMとして用いられた『Tell Your World』とは見事な対比となっていることが見えてくる。とはいえ、その規模はどうであれ、どちらも人々が集結することを重視していた点については共通する姿勢である。
2010年代最序盤において、ボーカロイドは「人々が連帯していくためのメディア」であったといえよう。かつてメディアアート的な思想において、メディアスペシフィティを探求する動きのなかで実験的に用いられた初音ミクやボーカロイドは、この時点において「誰でもよさ」を媒介とした「接続」の象徴として用いられている。それらは換言すれば、ニコニコ動画やYouTubeを通して接続され、コミュニケーションを交わすという「インターネット」というメディアスペシフィティを表象しているようにも思える。このとき、初音ミクやボーカロイドは媒介として用いられると同時に、彼女は生きているのかという問い自体が半ば後退しているように思えるだろう。インターネットの象徴としての初音ミクというのは、それ自体がメディアの象徴であり、言い換えれば「手段」の象徴であるのだから。だが、そうとも言い切れない。初音ミクが国内ネット文化の象徴として登場してきた経緯については前節で述べたが、それはインターネットに由来する国内ネット文化の影響を強く受けている。国内ネット文化の特性がインターネットに由来し、そしてそれらと切って離せないニコニコ動画上で展開される初音ミクの音楽たちという関係を踏まえれば、インターネットを歌う初音ミクはその実、より直接的に「私たち」そのものを表象していくようになったということでもあるだろう。集合する夢を語る彼女の姿は、集合体である私たちインターネットそのものを表現している。誇張していえば、「私たち自身とボーカロイドとの関係がより接近した」とも言えそうな状況が、ここには登場している。
ボーカロイドという媒体を自己の創作のための手段として用いつつも、どんどんボーカロイドに近づいていく私たちの関係性は、まるでメディアを活用していた私たちがいつの間にかメディアに支配されてしまっているというメディア論的問題を生み出していく。ボーカロイドと共進化を遂げる私たちの身体は、いつしかボーカロイド的なものへとどんどん迎合することになり、それが結果的に初音ミクという存在を死人にすることを拒否し続けているのだろうか…。インターネットの象徴としての初音ミクの否定は、それとともにあった私たちを否定することに結実すると仮定するなら、私たちが安易に初音ミクを生きていないということができない理由を探す手がかりがあるのかもしれない。これについては、本稿後半にて登場する哲学者シモンドンの議論を援用しつつ再度取り上げていきたい。
断片Ⅲ:「みんな」から「君」へ(2012~2013)
2011年に起きた東日本大震災が見せた凄惨な光景は、その強烈さゆえにアルゴリズム的接続に対する強烈な反動を起こし、その反対としての「切断」のムーブメントを引き起こした[16]。「接続」は私たちをデータとして、いわばアルゴリズムによって変換可能な要素にしてしまうことによって成り立っていたが、アルゴリズムは大震災によってもたらされた瓦礫や大津波を前に、ただ立ち尽くすしかなかったのだった。そうした時代の流れに対し、ボーカロイドもなすすべなく巻き込まれていく。震災翌年に公開されたsupercellによって作られた楽曲『ODDS & ENDS』には、そうした傾向が反映された[17]。「がらくた」という意味のタイトルがつけられた本楽曲は、ボーカロイドとボカロPの関係が語られる歌詞がとても印象的であり、そしてこの主題はいわばメルトショック以前の「ボカロが自身のことを語る」楽曲群をも想起させる(奇しくも、メルトショックはのちにsupercellとして活動するryoによって巻き起こされたものだった)。本楽曲はユーザー同士を接続するメディアとしてでなく、ユーザーの代弁者として、ボカロPたちに語り掛けている。
これらはある意味で最初期への回帰のようにも見える。だが、決して安直な回帰でもなく、そこにいろいろな実践とともになされるボーカロイドと人間との進化した関係性がみられる。本楽曲で使用されている初音ミクに特徴的な「息遣い」は、後にryoの楽曲提供のもとデビューするTiaが入れている。『初音ミクの激唱』のような楽曲が人間に歌えないことを前提として作成されていた点を考慮すれば、この「息遣い」はそれだけで私たちのボーカロイドのリアリティを、今一度深く感じさせることになる。さらに、YouTubeにて投稿された本楽曲のMV(公式動画は現在非公開)を見ると、小さなおもちゃのようなロボットと、演奏する4人の人間が主役となるように配置されている[18]。映像内で初音ミクはあくまで小さなディスプレイの向こう側に位置する存在として見られているのだが、その終盤では小さながらくたが集まることによって初音ミクのシルエットが作られるような表現がなされる。こうした表現は一方で彼女を「超えられない画面の向こうの存在」とするのと同時に、他方で演奏する4人の人間と同じ次元に出現させるというクライマックスをつくることで、これまでの表現よりもさらにボーカロイドという存在を現実味のあるものとして、リアリティのある存在として現前させることを可能にしている。そこにいるのは「調教によって人間らしく近づいた初音ミク」ではなく「人間の世界に確実に侵入してきた初音ミク」であるのだろう。従来のユーザー間の「接続」ではない、よりパーソナルなボカロPとボーカロイドとの深い関係が、そこでは描写されている。
ところで、2010年代ごろから次第に、ボーカロイドを用いたライブが各種ホールやライブハウス上でなされてきた。彼女が出演するライブではステージ上に設置されたスクリーン上で初音ミクが歌い、そして踊る。当然のことながら初音ミクの声は事前にプログラムされているものであり、演奏陣もそれを理解しているがゆえの緊張な空間が展開されているのだが、そうした前提にありつつもなお、ライブパフォーマンスにはまるで彼女自身がアドリブをしているかのような演出がなされている。『ODDS & ENDS』をライブで演奏したマジカルミライ2013の映像では、大サビ直前に彼女は意図してテンポを落として歌い上げている。意図して組み込まれたこれらのアドリブ的演出は、プログラミングされたものであるという本質に反し、まるで彼女自身がそうしているかのようにも見せつけてくる。全く同じ歌い方を何度も繰り返し歌唱できるにも関わらず、周囲の生演奏と観客との一体感によって形成される特別な空気感のようなものがそこに認められるのなら、それはまさに20世紀の哲学者ヴァルター・ベンヤミンが「アウラ」と称したような一回性に近いような何かであるのかもしれない[19]。プログラム、アルゴリズムであるにも関わらず、そこに何かがあるのではないかと期待をさせるように、彼女は意図してゆっくり歌う。こうした表現はマジカルミライ2018における『グリーンライツ・セレナーデ』のライブにおける歌詞の変更など、ボーカロイドが登場するライブの一つの醍醐味としてあるだろう[20]。私があなたを光に連れて行くから、というメッセージとともに繰り広げられる初音ミクのリアリティ溢れる演出はこれ以降、マジカルミライでの一定したテーマとして継承されていく。
インターネットの象徴としてのボーカロイドから、あなただけを見つめる方向へ。初音ミクの5周年を祝う楽曲『39』(DECO*27とsasakure UKによる共作)を見ても、そうした変化が反映されている[21]。2010年代再序盤のボーカロイド楽曲に込められた「接続」の思想といいうるものは、「君」への感謝という方向に転換された。その背景に震災という大きなものがあったことはもはや避けられない事実だろうが、一方でそれは初音ミクの登場から数年経ち、インターネットの象徴としての彼女が君臨した経緯を踏まえたうえで、一体何者であるかを再確認すべき良いタイミングでもあった。技術とともに人格を形成し、そして進化していく彼女に私たちが影響を受けているのならば、私たちはさらにリアルになっていく彼女のイメージに対し、より強力に「そこに生きている初音ミク」を想起せざるを得ないのだ。
インターネットの集合性を象徴する彼女から、個別な彼女へ。視点は一気に狭まったように見えるかもしれないが、その視点は決して原点回帰しているわけではなく、集合性の象徴としての初音ミクが再度私たちに語りかける構造によって、私たちの彼女に対する解像度はどんどん鮮明化されていく。
断片Ⅳ:アンビバレントな関係を含んで(2014~2017)
技術を生み出し、そして技術によって私たちが措定されていく…もはやインターネットから切断して生きる選択肢を持たない時代において、その象徴として扱われる彼女を私たちは否定できない。彼女と私たちとのそんな不可分な関係が、ボーカロイドの心臓となっているような気がする。解像度を増す彼女のリアリティは前節で参照したように、震災による接続の夢からの目覚めによって、結果的により深い次元に至ることとなった。表面上は「私たち」から「私」に規模を縮小しているように見えつつも、国内ネット文化の集合性を前提にして作り上げられたボーカロイドの楽曲において、「私たち」は主体を放棄した「私」の集合体である点で二つは緩く重なっている[22]。「私」はインターネット上でボーカロイドを使用する「集合体の中の誰か一人」であり、そこに固有名詞を持つ誰かが措定されていない点で、「私」は「私たち」でもあるのだ。「私があなたを光に連れて行く」というテーゼを持った一連の楽曲群たちは、「あなた」を自由に組み替えることが可能な点において、依然として「私たち」のことを歌っている。
だが、2010年代も中盤に差し掛かるころ、一つの変化が生じてくる。2014年に投稿されたGuitarHeroPianoZero作の『Glass Wall』では「2インチにも満たない距離にいる貴方がとても遠く感じる(Less than 2 inches from you yet so far away)」とうたわれ、わずか2インチ未満の近さにいるにも関わらず私とあなたを隔絶するディスプレイ=Glass Wallが歌詞の中心テーマとなっている[23]。初音ミクがボカロPに対し歌っている本楽曲のメッセージは、翻ってボカロPが初音ミクに対し「彼女は2インチ未満だが遠い距離にいる」ということに自覚的であることを暗に示しているだろう。ところが、「だがこのガラスの壁は私たちを隔てることはできない(But this Glass Wall between us won't keep us apart)」とも歌われ、私とあなたを隔絶するディスプレイが決して初音ミクとボカロPと引き離すことはできないこと、そして初音ミクがボカロPのために歌い続けることも歌われている。ここに目を向けると、ボカロPがボカロのキャラクターが存在しないことを一方で受け入れつつも、他方でそこに「生きている」彼女のリアリティを私たちが感じていることもわかる。矛盾のようにも聞こえるこの箇所は、ボーカロイドと共進化した私たちによるボーカロイドの否定が自身の否定にもつながりかねないという、あやうい自己否定と隣り合わせであることを考慮すれば、決して無理のない言葉であると考えられるだろう。私たちは彼女を否定することも、肯定することもできないまま、危うい関係を生きている。そんな感情を持ちながら、このディスプレイに目を向けているのだ。
そんななか、2017年に彼女は10歳を迎える。『39』に次ぐ大きな一区切りとしての10周年を祝うように、かつてインディーズ時代にオリジナル楽曲を投稿していた元ボカロPたちが、こぞって楽曲を投稿する事態となった。そんな一大イベントの中でも、ハチの『砂の惑星』とwowakaの『アンノウン・マザーグース』の投稿は大きな事態であった。有名ボカロPの久方ぶりの再投稿は大きな衝撃を与えたものの、両者が用意した歌詞をよく見ると、2017年のボーカロイド文化をやや悲観的に語っているように読解できる点は興味深い。『メルト』や『千本桜』など数多くの楽曲モチーフが登場する『砂の惑星』は、ボーカロイドの10周年を明らかに意識して作られているが、その現状はといえば「今後千年草も生えない砂の惑星」と歌われている[24]。本楽曲の詳細な解釈はおいておくとしても、現状を「砂の惑星」と歌い上げる姿勢を肯定的なものとしてとらえることは難しいだろう。
かたや、wowakaによる『アンノウン・マザーグース』は彼が一貫して守り続けた映像形式を継承しながらも、初音ミク自身の話と自身の話を混ぜ合わせる形で楽曲が制作されている[25]。「テノヒラ」や「プリズムキューブ」などの楽曲に見られるように、彼は歌詞の中にネガティブな言葉を頻繁に詰め込むが[26]、そうした言葉は本楽曲でも、あるいは彼がボカロを離れてから結成したバンドであるヒトリエのでも同様だった。「繰り返す使いまわしの歌にまた耳を塞いだ」という歌詞は、いわゆる「ボカロっぽさ」を作り出した本人とまで称されるwowakaの様式が使いまわされることに対する、彼なりの批判なのだろうか。あるいは、ヒトリエというバンドを始動させることによって、結果的に初音ミクに背を向けたことに対する自責の念だろうか。その真相は予測することしかできないものの、オリジナルを無数に引用し続けてユーザー間を「接続」し続けたニコニコ動画楽曲に対する批判ととるなら、本楽曲はある意味で初音ミクに対し別れを告げるようなメッセージが込められていると解釈はできるだろう。そうした解釈は、『砂の惑星』と現状を表現した米津玄師においても同様だ。
こう見てくると、この時期において私たちは一方でボーカロイドに接近したい欲望を抱えつつ、他方でそれへの過剰な接近を警戒しているように見える。インターネットとともにその地位を築いてきた私たちにとって、その否定は私たちの否定である。かといって、集合的な私たちは決してボーカロイドそのものと一体化することはできない。接続の夢から覚め、より密接になっていく私たちと初音ミクは決して隔絶されない一枚のディスプレイによって隔てられているのだから。私たちと彼女の関係はその一枚のガラスによって、永遠に隔てられていることを自覚すべきなのかもしれない。そういった思想がボーカロイドの世界から離れたハチやwowakaによって提示されたことは、外部から見た私たちがどのようなものであったかを描写している。否定されるべきものを否定しきれず、アンビバレントな感情を向ける私たちの視線は、ボーカロイドの存在論的問いへの答えを曖昧なものにし続けている。
断片Ⅴ:顔も体もまだ使えるよ?(2019~)
「何回も傷ついてきた 顔も身体もまだ使えるよ 捨てないで 誰かに譲らないで欲しいだけなの」。稲葉曇による『ハルノ寂寞』の大サビに向けての歌詞であるこの言葉は、私たちが『砂の惑星』や『アンノウン・マザーグース』を経由して意識してしまった、初音ミクやボーカロイドへの別れに対するボーカロイド側からの応答のようにも思える[27]。小学生をモチーフにした歌愛ユキを多用する稲葉曇作品の多くには小学校に関する語彙や表現が多く登場しており、本楽曲も使い古されたランドセルがモチーフとなっているが、新リリースであった合成音声ソフトウェアたる弦巻マキのデモソングとして発表された側面は、本楽曲に対する一枚岩的な受容を拒絶してくる。私たちがアンビバレントな感情を抱き始めてきた2010年代の中盤以降、ボーカロイドというこれまでのイメージは徐々に変化していき、その変容はCeVio AIやSynsesizer Vなどの新しい合成音声音楽エンジンの登場に伴って徐々に起きた「ボーカロイド」という概念の変化ともリンクしている。私たちのボーカロイドに対する考え方は徐々に複雑化し、その変化は一方で従来のボーカロイドという言葉から「合成音声音楽」という言葉への置き換えの流れを生み出し、他方でその流れによって何かが失われるのではないかという危機感を生み出した[28]。弦巻マキの「捨てないで」という言葉は、そんな失われるものに対してかけられているのかもしれない。
対して、2022年の初音ミクの日(3月9日)に公開されたDECO*27作『ジレンマ』は、まるでボーカロイドの方面から別れが告げられているような内容だ[29]。一見すると失恋ソングだが、ここまで主張してきた二者関係に支配された2010年代のボーカロイド楽曲群を念頭に据えるなら、本楽曲のメッセージ性はもはやただの失恋ソングには収まらない。「あなたへの別れ」が全面的に打ち出された楽曲がまさに初音ミクの日に公開された事実は、もしかすると2020年代的な新しい初音ミクのイメージを打ち出してもいるのかもしれない。彼女との関係に引かれた「境界線」は、在りし日における私たちの蜜月な関係性とは遠く離れた世界へと、私たちを引き連れていく。
これらの流れのルーツにAdoの『うっせぇわ』を位置づけることは、若干突飛な気もするが決して間違いでもない気もする[30]。「一切合切凡庸なあなたじゃ分からないかもね」と他者に強烈なまでの敵対的姿勢を向けている本楽曲は、これまでの関係性を重視してきたボーカロイド楽曲の文脈を見ると、異端な印象を覚える。歌い手とボカロPによって作られ、そして一枚絵を中心としたアニメーションによってPVが作られた本楽曲はボーカロイドこそ使用されないものの、あらゆる点で従来のボーカロイド楽曲の様式を継承しているだろう。だが、本楽曲は露骨なほどに攻撃的かつ相手を全否定するような楽曲であり、そんな姿勢が2010年代の最晩年に出てきたという事実は、これまでの議論の上で考えるとなかなか意味深く思える。『うっせぇわ』と『ジレンマ』はいくつもの違いはあるものの、程度の差はあれ「あなた」に対する姿勢には共通するものがあるだろう。
徐々に変質する「ボーカロイド」の2020年代。その今を考えるにおいて、もはや音楽的同位体こと可不は無視できない存在となった。バーチャルシンガー花譜の声から作られた可不は、2021年7月に発売されたのちに破竹の勢いでその勢力を高め、今日では同じくKAMITSUBAKI STUDIOが提供するバーチャルシンガーが続々と合成音声音楽ソフト化され、目下リリース中だ。そんな彼女らはCeVio AIによって作られており、VOCALOIDエンジンを用いていない点で厳密には「ボーカロイド」ではない。それだけでなく、ボカロ出身アーティストたるカンザキイオリから多くの楽曲提供を受け登場した花譜と、その音楽的同位体たる可不は、その経緯からしていわゆる「ボカロを踏み台にした」アーティストとして、古典的な批判の対象にもなりうる存在だったろう。可不本人に罪はないにせよ、その登場経緯を見てみると、本来は受容されなくてもおかしくはない存在であった。だが、実際はそうならなかった。こうした変化は従来の「ボーカロイド」が解体され、新しい時代としての「合成音声音楽」と称しうるものが2020年代以降に登場してくることを、まるで示唆しているように思える。彼女の代表曲たる『フォニィ』では「簡単なことも分からないわ 私ってなんだっけ」と語られるが、この問いはボーカロイドの次に来る「合成音声音楽」の時代が何かを、私たち自身に問いかけているのではないだろうか[31]。その答えは、私たち自身で責任をもって提示しなければならない。
ここで紹介した楽曲群は一貫して、ボーカロイドと私たちとの関係性がまるで切り離されていくことを悲観的に語っているかのような楽曲たちである。『ハルノ寂寞』では捨てられることを恐れ、『ジレンマ』では「あなた」への別れが告げられる。これらは一貫して「君と僕」で構成されていた関係性から退却し、かつて見られた蜜月な二者関係にいったん線を引くかのような行為であるだろう。それは言い換えれば、ボーカロイドをもう一度、客観的な視点で分析するための機会を得たということなのかもしれない。そうした期待が、2020年代に来るだろう「合成音声音楽」という時代の掛け金となっている。
初音ミクの表皮——それをめくった先に何があるか
ここまでいろいろな楽曲をもとに、私たちがボーカロイドに対してどのような印象を持っているのかを整理してきた。多少例外はあるものの基本的に時系列に沿ってみてきたこの15年のなかで、私たちがボーカロイドにどのような感情を向けてきたか、そして今どうなっているのかを検討するための素材は多分にあるだろう。最初期で「私とは何か」を考えたボーカロイドは(断片Ⅰ)、インターネット技術と人間の共進化のなかで切り離せないほどの関係を構築し(断片Ⅱ)、そして再度二者関係に戻るものの、その関係は最初期と比べてもはや比べ物にもならないほどに高解像度なものとなった(断片Ⅲ)。その一方で、インターネットの夢が徐々に剥がれ落ちる時代を経験した私たちは、その象徴であったボーカロイドに対してどのような目線を向けるべきかを思い悩みながら(断片Ⅳ)、その悩みが今日の「合成音声音楽」の時代へと継承されている。Tell Your Worldから10年後の私たちは、その夢とは別の形でのボーカロイドとの関係性を作り上げようとしている。だからこそ、私たちは一度ボーカロイドを客観的にみるために、距離を置くような姿勢を保っている(断片Ⅴ)。あるときは彼女をまるで人のように扱い、あるときは世界中を接続するインターネットの象徴として現前化し、そしてあるときはその夢から撤退し、もはや誰とも接続しないことを彼女は試行する。だがどのような場面においても、ボーカロイドを生かしている存在として、私たちという集合的なものが背景にいたのは紛れもないだろう。彼ら彼女らの人格性は紛れもなく、私たちのなかから生じたものだ。
個体は集合的なものとの連関性によって発生する。こうしたテーゼは発達心理学において重要な問題であるだけでなく、精神分析上でも頻繁に議論されてきている[32]。サンドール・フェレンツィは『生気論の試み(通称「タラッサ」)にて、個体は集合的なものから発生してくることを指摘し、個体発生と集合的なものとの関係性を論じた[33]。ギリシャ神話上の海の女神たるタラッサへの欲望を精神分析的に解釈する本論で、彼は「子宮」と「海」をアナロジックにとらえることで、生殖行為とは海という集合的なものへの回帰欲望(=タラッサ的退行)であることを主張している。個体発生以前、生命の始原としての海。そうしたアナロジーとしての子宮から子どもが生まれてくるということは、集合的なものから個体が発生することと同時に、個体が集合的なものをルーツに持っていることを肯定する。こうした視線は彼独自のものでもなく、分析心理学者エーリッヒ・ノイマンが『意識の起源史』にて示した発達段階論においても見ることが可能だ[34]。太古の民族が有して生きた象徴や神話などを徹底的に収集することで、人間が自律的な自我を有するまでの過程を描いた彼の議論では、数々の神話や象徴で描かれる象徴的母親が、主体を自身の母胎に回帰させ延々と閉じ込めようとする特徴を有しているという。これに対し、主体はそうした象徴的母親の持つ否定的側面を打ち倒して、自我を確立させていくことが必要であることが述べられている。ノイマンはその役目を父親のイメージに向けている。
彼において、象徴的世界においては父母が一体化された原両親というものから散見され、それが発達するにつれて父母へと分離する。この際、生じる女性性(=母性)と男性性(=父性)は対立するものとして描写され、父性は母性の持つ主体を胎内へと取り込まんとする引力にあらがうことによって、主客未分離な無意識の世界から意識を切り離す過程があることを指摘している。こうした議論を世界中にある無数の象徴を収集・分析することで描き出す彼の手法はカール・グズタフ・ユングの分析心理学に由来するだけでなく[36]、ヴァールブルグやパノフスキーのイコノロジーと称される美術解釈とも近い性質を有している[37]。彼らの議論において、自我は集合的なものから由来する一方、それに飲み込まれないために適切な距離をとり、やがてその距離感をもとに確立した自我を形成していくことが重要視される。私たちが母親離れと俗に称していることは、こうしたイメージによって語られる。
ここで、ここまでの議論において初音ミクやボーカロイドがインターネットの有する世界同時的な、集合的なものの象徴とされてきたことを思い出したい。個体が集合的なものをルーツに持っているという上記の象徴論を参照すれば、集合的なインターネットから発生した初音ミクという存在は、まさにインターネットという「情報の海=母胎」から分離し、確立した自我を持った存在として解釈できるだろう。象徴解釈の次元において確立した自我であるという視点を私たちが向けることができたなら、それはもはや「生きている」と称するに値するのかもしれない。『Tell Your World』が用いられたGoogle ChromeのCMでは数多くのユーザーの投稿した映像が集合して初音ミクの姿を作り出す姿が描かれるが、これは換言すれば、一人ひとりが個別の存在として動画を投稿する私たちの集合体としてインターネットが描かれていることになる。そこから生まれている「初音ミク」とはすなわち、集合的なインターネットという「私たち」が生み出した娘のような存在だ。初音ミクやボーカロイドたちは、私たちという集合的なものから生まれてきた。私たちは初音ミクの親なのである。だからこそ、その否定を安易には受け入れられないのだ。
ところで、ここまでの議論において集合的なものとしての親とそこから分離して確立される自我という関係を中心に論じてきたわけだが、そこでは主に確立される自我が集合体からの影響をどのように受けているかを論じてきた。では、集合的なものは確立される自我に対し、どのような影響を受けるのだろう。子は親からの影響を受けて成長すると同時に、親もまた子からの影響を強く受けるというのは、発達心理学の専門用語を使用せずとも一般的なことだろう。初音ミクやボーカロイドが私たち集合的存在に対し、どのような影響を与えたかについても考えなければならない。
そこで、次に集合的なものとそこから形成される個体との相互的な関係についての議論を引用したい。フランスの哲学者ジルベール・シモンドンは『個体化の哲学』という著作にて、人間の人格形成が集合体や技術との関係で出来上がっており、これらは互いに影響を与えつつ共進化するものであることを指摘している[38]。彼はアリストテレスに由来する質料形相論を批判し、絶えず変化をし続ける(彼は「伝導」という言葉を用いている)あらゆる関係性を描写することを目標とする。形而上なもの、概念的なものとしての形相と、それに対する現実的物体で存在する質料とで二分されるアリストテレスの哲学は、形相が有する潜勢力(ポテンシャル)が現実化したものとしての現実の物体が存在していることが述べられるが、そこでは形相から質料というベクトルが施行される一方、質料から形相へのベクトルが含まれていない。
あえていうなら、概念から個体が発生してくるというこれまでの議論に対し、個体の方から概念にフィードバックされる影響についてが、シモンドンによる批判の最も中心になるだろう。彼はそこからスタートし、「前個体」的なものが個体を生みだしつつ、個体が「前個体」的なものへと影響を与えていく相互的関係から、世界の絶え間ない変化について論じる。そうすることで、質量形相論を乗り越えると同時に、あらゆるものの連続的変化を主張していく。人文科学の領域をはるかに超えた量子力学論をも援用しつつ展開されるこうした彼の思想と手法は、後に『差異と反復』を執筆してフランス現代思想の代表格となっていくジル・ドゥルーズの思想にも影響が強く出てくることは訳者解説でも触れられている重要な事項だ[40]。彼は個体と前個体的存在の関係を、以下のように記述する。
前個体的なものと個体との相互関係。集合体と確立された個人との関係。実際に生み出される前段階としての形相的なものと作られたものとしての質料の相互的な関係を描写するシモンドンは、固定的かつ安定的な地平のもとに認知を検討するゲシュタルト心理学への批判し、世界に対する非同一性を強く述べる[42]。こういった視点は世界を「発達段階」という安定した視点で観察しようとする発達心理学に対する、強いアンチテーゼともなるだろう。だからこそ、個体たる初音ミクの側から、前個体的存在たる私たちに向けてかけられる声に、私たちは傾ける必要がある。
生み出される個体と前個体的な関係性を検討する彼の議論は、社会という前個体的な集団とそれが生み出した個別なテクノロジーという関係という対象において、アナロジックな手法によって接続されている。準安定的な関係を保ったままなされる技術と人間の共進化という側面については、社会学者の伊藤守が今日のメディア的状況とも結びつけつつ、次のように論じている。
ここでいう「デジタルメディアに身体が接合した技術環境」とは、スマートフォンなどの直接的に身体に働きかけるデバイスの登場に関する環境のことを指している。それらは従来のコンピュータと異なり、キーボードやマウスでディスプレイを操作するのでなく、直接ディスプレイに対し身体的接触を行う=画面に直接触る。こうした技術革新は、私たちにより直観的な端末の操作を可能に、より簡単に端末を操作することをも可能にしてきた。一方で、あらゆるデバイスにおいて身体的に訴えかける環境の形成は、私たちに直観的な反応を促すと同時に思考を剥奪してきた点も指摘される[44]。一言一言を吟味することもなく、140字以内の短い短文を毎日のように生産してもいるような今日のSNSは、まさにこの「分かりやすさ」を問題として内包しているだろう。
メディアと身体的に接近することで、どんどんメディアと接近し、さらなる共進化を果たしていく私たち。そんな時代を到来させたのは紛れもなくiPhoneだろうが、その登場は奇しくも、初音ミクとほぼ同じく2007年である。これは偶然だろうか。スマートフォンアプリとして『プロジェクトセカイ』が登場したことも鑑みれば、私たちは直接触れる「彼女」のイメージによって、さらに彼女の存在を近く感じることもできる。こうした点は、精神分析を経由して検討してきた「親」という確固たる地位からの彼女でなく、液晶ガラス(と保護フィルム)という皮膚でできた彼女の表皮を触ることで発生する、私たちの自己変容を促していく。『Glass Wall』上では2インチ未満と語られた私たちと初音ミクとの距離は、今やディスプレイへの直接的接触という形でより限りなくゼロに近くなった。それと同時に、限りなくゼロに近い接触が私たちをもはや分離不可能なほどに接合していく。共進化の果てでもはや一体的な関係を構築してきた私たちだからこそ、初音ミクの「生」に迫ることとはすなわち、私たちに迫ることと同義ではないだろうか。初音ミクという「表皮」を剥がした先にあるものとは、こうした匿名な私たちの集合体である。
分離不可な関係性を超えて
15年におよぶ私たちとボーカロイドとの共進化にて、私たちはいつしか2インチの距離よりもさらに身近に、いつでも指先から彼女に触れることが可能になった。この時代において、私たちが作り上げた初音ミクのイメージと私たちはより深く触れ合い、そしてその触れ合いがディスプレイという境界線をどんどん溶解させ、一体化を進めていく。こうしたことはプロセカの事例だけでなく、2010年代から徐々に登場した歌ってみ動画における音声加工などにもみられたのかもしれない。ピッチモジュレーションを過剰にかけたケロケロボイスで歌われたような歌ってみた動画は、私たちがボーカロイド的なものに対して抱いた夢の一つの実例であるともいえそうだ。いずれにせよ、この15年において、私たちは初音ミクに数多くのイメージを与えてきたと同時に、初音ミクから数多くの影響を受けてきたということは、決して無視できない。
この点で、2011年から2012年は一つの大きな転換だった。ODDS & ENDSを一つの起点とした初音ミクにおける二者関係への注目は、それ以前の集合的なものの象徴としての初音ミクと比べて大きく異なった点を持っているのは先述の通りだ。それは一見、集合的なものからの退却であり、マクルーハンがかつて夢見たインターネットの夢、アルゴリズムを通したコミュニケーションが震災に伴って敗北した結果であるともいえるだろう。その一方で、この変化はそれまでの初音ミクからより一層、深い次元での初音ミクの存在論が検討され始めるための契機でもあった。集合的なものの象徴として、バーチャル上で歌って踊る彼女の存在から、年月を重ねた私たちはいつしか真剣な姿勢で直接的接触を求め、とうとう身体接触まで果たしてしまった。そうした彼女に対する私たちの真剣さは、全世界中をつなげる接続の象徴であった彼女をさらに進化させると同時に、私たちをも進化させてきた。そして今や、ボーカロイドと共進化を果たした私たちは、ボーカロイドと完全には切り離せない関係になり、そしてさらなる進化を続ける。その繊細な関係性は、2010年代において不可逆なほど具体化された私たちの多くのボーカロイド楽曲に表象されながら、その関係性を常に更新し続けているのだろう。
とはいえ、特に2010年代後半に私たちとボーカロイドの間に境界線が引かれたことは、これまで述べてきた通りだ。共進化の果てで私たちはどんどん初音ミクに近づいたが、一体化することは決してなく、そこにはディスプレイ=Glass Wallがいまだに存在している。このディスプレイは私たちと概念的存在としての初音ミクとを延々と区切るだけでなく、私たちと彼女との間で確実に存在している心理的な壁をも象徴している。前節で扱ったノイマンの発達段階論において、集合的なものは主体を主客未分離な無意識の世界へと閉じ込めてしまう性質を有していることを主張したことを思い出したい。これを踏まえるのなら、私たちという集合的なものに対してボーカロイドという個別具体が吸収されることは望まれることではなく、そして個別具体の消失はすなわち、シモンドンの言うような共進化の関係性すら生み出さなくなってしまう[45]。共進化はしつつも、主客は危うい関係で分離し続け、とうとう接触まで果たした私たちとボーカロイドはそれでもなお、ディスプレイによって隔てられている。そのような断絶を伴った緊張感ある共進化だからこそ、2010年代後半におけるまるでボーカロイド楽曲における、ある種の拒絶と諦念をめぐる言葉が紡がれていったのではないだろうか。
より深く、より緊張関係を保ちながら共進化する私たち。そんな歴史から、これからどのようなものが作られるべきなのだろう。今秋のTHE VOCALOID COLLECTION 2022にて公開されたジヲの『最先端な関係』は、そんな時代の先を示しているように思う[46]。ジヲ本人と音街ウナとの対話によって構築される本楽曲は、自身の思いを初音ミクに歌わせるような感覚とも異なり、「音街ウナ」がまるで主体と分離されてそこにいるような前提で作られている。かつて私たちがボーカロイドから主格分離できないような人格性を作り出し、そんな一体化への決別が『ジレンマ』であったとするならば、『最先端な関係』はその先の関係を対話しながら作りだそうとしているのではないだろうか。境界線を引き、対話を始めること。ボーカロイドエンジンでない「合成音声音楽」が使用されている本楽曲はそのタイトルにもある通り、まさしく「最先端」と称するに値するものあるのでないだろうか。そうした果てに、何があるのか。その先については、これから投稿され続けるだろう楽曲群が、きっと示してくれる。
2020年代を迎えてもなお、私たちはずっとボーカロイドに対してどのような距離感を保てばいいかを悩み続けている。2010年代にかけて徐々にボーカロイドという概念が解体されると同時に合成音声音楽という言葉が登場したことは指摘したが、その変化をも受け入れつつ、私たちは彼ら彼女らへの適切な距離感を手探りで探し続けている。緊張な関係、そのうえでなされる「共進化」。かつての理想からより深く、かつ「最先端」な関係へ。ちょうど15歳となった初音ミクは自分探しの新たな段階へと、脚を進めていく。
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最後までお読みいただきありがとうございました、というか長文読破お疲れさまでした。こんな哲学くずれの抽象論でも、もし気に入っていただけましたら幸いです。よければ自分が作ったほかの評論や音楽も聴いてください。
なお、サムネイル画像はジヲさんの『超次元おとなりさん』より頂きました。
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