常識とは、みんなに合わせることなのか
「みんながしてるから自分もしなくてはいけない」というストレスフルな動機から常識というものを捕らえるから辛くなる。
常識とは本来、「人間社会を快適に運用する上で必要とされる、共通認識されるべき知恵・知識・価値観・行動規範」であり、それは同じコミュニティ内において快適に暮らしてゆくための仕組みである。
常識という名のルールは世の中に無数にあり、経済の発展とともに、ベースとして作られた常識の上にさらに新たな常識が作られてゆく。
その過程で、「なんでそれが常識?」と思えてしまうような「常識という名の謎ルール」も無数に生まれている。
その謎ルールは、常識という盾に守られているので、真理としては間違っていたりしても、その間違いを指摘する者に対して、常識という名の正義によって裁きを下されるリスクがあったりする。
例えば、個人的に思うその謎ルール。
サラリーマンはスーツ着用
もちろん会社によっては私服OKなところも最近では多いけれど、まだまだ世の中はスーツ社会。
スーツって、見た目も着心地が堅苦しいし、リラックスできない。夏場なんか特に、暑苦しい。クリーニングも大変だし、お金もかかる。
なんであんなの着なくてはならないの?
(私は私服通勤ですが…)
会社がルールとして決めているのなら、着なくてはいけないけれど、ルール化しているのはもちろん疑問。しかし、特別にルールとして決められていないのならば、別にスーツを着なくていいのに、何故かみんなスーツ着ている会社もあるよね?あれは、暗黙の了解みたいな、謎ルールとして存在してない?
そういう、「明文化していないのにみんな守らなくちゃいけないルール」ってのが、どうにも気持ちが悪い。。
かといって、自分だけがスーツじゃなくて私服とかだと、自分だけ浮いてる感・ハミ出してる感にいたたまれなくなる。
自分がいま、取引先での商談を円滑に行うことと、暑苦しいスーツを着用していることに、なんか必要でなければならない相関性は必ずあるのかな?
そのあたりを考えると、やっぱり疑問に感じざるを得ないことも多そうだ。
20〜30代のうちに結婚
世の中の大半の人は、20〜30代のうちに結婚する。結婚したくてするのならもちろん構わない。でも、多くの人が結婚するからといって、大して結婚願望もないのに「みんな結婚してるし、自分も結婚しなきゃな…」という動機で婚活したり、相手見つけて結婚するとかは、なんか違うよね。もちろん「親がうるさいから結婚する」とかも違うし。
ネット界なんかをみていたら、最近では結婚についても、価値観が多様化しているようだ。同性婚とか、事実婚とか、複数人のパートナーを持つだの持たないだの。離婚率も年々高まってきているし、生涯独身率も高まってきている。
顕著に少子化がデータとして現れているわけだから、そもそも結婚自体も「しなくてはならないもの」から「したければしたらいいもの」くらいに変わってきているのかもしれない。
でも、世間の空気感としては、まだまだ「20〜30代で結婚」というのは常識なんだろうなと感じることは多い。まあ、大多数の人達が、20〜30代で結婚をするという現実があるわけだからね。
そんななかで、40代まで独身だったりすると、昔ほどじゃないにしろ、変な目線を受けたりもする。「40代まで独身、ってことは…あの人、人間的に何か問題があるに違いない」的な目線ね。たまたま大多数から外れた生き方になってしまった結果、「あいつは変人」というレッテルを貼られ、人格を疑われるわけです。
このことを気にしてしまうと、実に生きにくい世の中なんだなと思わざるを得ない。
「20〜30代で結婚をしなかった」というのは、ただの事実に過ぎず、それに良いも悪いもないはず。
理由だって、まあ人によって実に様々だったりするだろうけれど、でもそれに良いとか悪いとかはない。
多分、私は、そういった「結婚すべきタイミングを、世の中の常識的なものに当て嵌めて批評されること」とか、それによって「変なレッテルを貼られること」とか、「それを気にして生きづらくなってしまうこと」といったことに対して、言い知れぬ憤りを覚えてしまうのだろう。
大体、結婚ちゅうもんは、家族との繋がりにおいて幸せになりたいからするもんだろう。幸せになれない結婚なんて誰も望まないし、結婚して幸せになれるかどうかを判断できるのは他でもない自分自身しかいないわけなのに、何故こんなデリケートな問題を親や兄弟や友人や同僚の、こっちの事情を知らない部外者の分際で勝手に好き勝手に評価されなくてはならないのだろう?また、それによって生きづらさを感じて、自分の人生の判断の指針を邪魔されなければならないのだろう?
…と、また妙にアツくなってしまったけれど、これも常識という謎ルールに振り回されて苦しむパターンですよね。
全裸が常識なこともある
たとえば日本だと、温泉や銭湯では全裸になります。これは日本の常識です。世界的には、そもそも温泉自体も施設としてはあまりなく、あっても水着着用が常識だったりします。
日本と世界、どっちが良いとか悪いとかを言いたいわけじゃない。そんなんは、単なる多様性でしかない。
よく思うのが、「人前で全裸って、恥ずかしいな」ってことです。
特に学生の頃とかって、人前で全裸になるのが恥ずかしかった。なぜなら、クラスのちょっと発言力がある奴(いじめっ子的存在)が、いじってきたりするから。
「お!お前、なんやねんガリガリやのぉ!もっと鍛えーやw」
「お前、それ、お粗末な○○やのう!わしのはホレ!どや!ガハハー!!」
修学旅行とか、体育のときの更衣室での着替えのときとかに、こういうやりとりがあったりするのです。
自分の肉体や各部のパーツに自信がないと、こういうやりとりにおいてトラウマレベルに傷ついたりする場合があります。
そういう経緯もあり、それとは別の理由もあり、人前で全裸ってのは恥ずかしいわけですよ。
でも、温泉や銭湯では、全裸にならざるをえない。というか当たり前だけれど、こういう場では全員が全裸になる。
全員が全裸なので、自分が全裸でも恥ずかしいということはないし自分だけが目立つこともない。だって、全員が全裸だもの。
逆に、日本の銭湯や温泉で、自分だけが水着つけてたらちょっと恥ずかしい。
まして、上下とも洋服着てたら、超悪目立ちしてしまう。
一方、銭湯や温泉以外の公共の場では、たとえば街中や駅前とかで全裸でいたらそれは常識から逸脱した行為なわけで、めちゃくちゃ恥ずかしいわけです。
みんな服着てますし、まあこれは迷惑防止条例違反にもなってしまうわけで犯罪行為でもあります。
しかし、ひとたび南米やアフリカ奥地の発展途上国の田舎とかに行くと、昔からその地で暮らす原住民や部族では、普通に全裸で外を歩いていたりするわけですよね。
それがそこでは常識ですから。
まあなんだか当たり前な話ではあるんですが、場所や状況が変われば、常識も全く変わってしまうわけなんです。
伝えたいこと
洋服とかは、「隠したい部分を隠せる」みたいな意味合いもありますね。
でも、銭湯や温泉では、結局人間の身体の全ては晒されるし、どんなに隠したところで、そこにあるものは◯◯なことは万人の知るところであり、それが人によって多少は◯◯だったり◯◯だったりすることはあるにせよ、ただの個体差に過ぎませんし、誰も見ていませんし、興味もありません。
それを見て、無駄に騒ぎたてる輩がいたのだとしたら、その輩のリテラシーとか人間性が浮き彫りになり、ブーメランとなって帰ってきます。
だから、みんな同じである必要もないし、自分だけが大きく逸脱しているな…と思ってみても実はそんなにみんな大して変わらないわけで、気にする必要はない。
だから、人と同じじゃなければならんとか、自分だけが出る杭になっちゃいけんとか、そういう悩みがあるのなら、完全に無駄です。
悩んだ経験があって、それが無駄だと気付いて、悩みから解放されたストーリーを情報として発信できて、それが誰かの心を救うのだとしたら、無駄じゃあないですね。笑
結局、伝えたいことでも、なんだかよくわからないことになってしまいました。とりあえず、会社行ってきます。
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