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私が自然育児にハマった日5      夫、鬱病になる 後編

ここ数日、これを書いたことで、封印した記憶と感情の蓋があいてしまい、涙がぼろぼろ出て来ます。
人間ってきつい記憶を忘れることで前に進んでいるんだな、と実感。
そしてどうやら、元夫はこのへんのこと覚えてないっぽい…最近木曜の午前中に電話かかってくるんですけど(つまり今日)、この記事書いた直後で、きついなあ…
さて、鬱病の話後編です。

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今思うと、私は小児ワクチン忌避と言うより、ワクチンを打つことを考える余裕を失っていったんだと思います。壮絶な状況の中で、もともとスケジューリングが苦手な私は、ワクチンなんて打たないほうがいいという思想を聞いて、そのほうが楽だからそっちに流れた。
 
時は2012年。スピリチュアル界ではマヤ暦の終わりによる終末とアセンション(次元上昇)の噂が広がっていた時期でした。私は終末なんて信じていなかったんですよ、最初は。でも311が起きて世の中が不安に満ち、Mが鬱病になって幸せだった日々が一気に崩壊して、ああこれが終末かなと思ってしまった。アセンションとやらが起きたらMはよくなるかな、元通りになるかなと思った。いつのまにやら周りはアセンションを信じる友人だらけで、みんなが信じているならそうなのかなと思った。
 
私は当時、精神病院の鬱病デイケアで働いていました。Mが働けない今、私が働きながら育児しよう。
病院での私は冷静で、代替療法がいいなんて思ったこともなかったし、家族へのサポ―トが必要だということを考えていたし、医療従事者としてワクチンも打ちました。
けれども、家での私はそういった科学的冷静さを欠いて行きました。
 
~昨日まで幸せだった 今日家を追い出された
昨日まで愛されてた 今日お前がいると死にたいと言われた
明日のことなんて神さまだってわからないから
こんな時でも どんな時でも 好きなことしよう~
 
これは私がその頃作った歌。こんな歌を作って、おお、いい歌出来たなんて喜んでいるくらい、私はちょっとおかしかったんじゃないかと思うんです。
 
私は家で、子ども達のためにも、Mのためにも、いつでも笑顔で、楽観的でいなければなりませんでした。少しでも私が不安定になるとMがショックを受けて激しく落ち込み激怒する。今思えば、それはMの不安の表れでした。でも私は当時、ああMは不安なんだな、と落ち着いて受け止める余裕がなかった。色々あって50才になった今なら受け止められるけれど、あの頃、今よりもずっと感情的で若くてエネルギー溢れる私は、激怒するMに泣いたり怖がったりしてしまい、そしてそのことがさらなるMの激怒を呼び、病状を悪化させました。
だからそれを避けるために。私はいつも楽観的でにこやかに、楽しそうにいなければならなかったのです。家で。

正直、私は家に帰るのが嫌になってゆきました。子どもたちと外で遊んで、もう帰らなければという時刻に、仕事を終えて帰る時に、身体がまったく動かずに声を発せないことが何回か起きました。
今思えば、私も鬱病寸前だった。
 
そんな状況で私は時々、ヒーリングライブを行っていました。声と呼吸のワークショップも。それは私の気持ちを穏やかにしたし、人々を喜ばせ、家の外に居場所をくれました。私は、逃げていたのだと思います。家から。Mから。Mの病状と向かい合うことから。
 
東京時代から私は、「一歩ちゃんてスピリチュアル能力があるでしょ」という言い方を何度もされてきました。私がライブやワークショップをすればするほど、その声は大きくなっていきました。
また、私は時々人の相談に乗っていました。これは精神保健福祉士そして社会福祉士として培った技術を使っていたと私は思うのですが、相談に乗った相手から、一歩ちゃん透視できてるよ。スピリチュアル能力あるよ。と言われるようになっていきました。
 
そしてまもなく、Mが、お願いしていた子どもたちの保育園迎えが不可能になったこともあり、私は仕事の継続が困難になって辞め、ヒーリングライブと声と呼吸のワークショップ、そしてスピリチュアル相談業をすることにしたのです。
 
ちょっと現代に戻りまして。つい数日前、私は元夫に電話で聞きました。
「昔、Mの病状大変だった時に、私がスピリチュアルとか自然育児とかハマって行ったじゃない?あれ、ストレスだった?病状、悪化させた?」
「…病状の悪化とかはないけれど…そうだな、俺よりそっちのほうがいいのかって思ってたな。まあ、すねてたんだよな。俺の心配してるよりそっちをやってるほうが活き活きしてたからさ。」
私は、逃げていたし、外に歓びを求めたし、それは元夫を苦しめていて、そして病状を悪化させたかもしれない。
それでも、私は私の心の助けが必要だった。反省しても後悔しても、あの時私は他にどうすることも出来なかったのではないかと思うのです。
 
さて、ヒーリングライブと呼吸と声のワークとスピリチュアルという名を冠した相談をして、私はじわじわとスピ好きに知られてゆきます。スピ好きがスピ好きの友達を紹介してくれて、自然派が自然派の友達を紹介してくれて、私はますます自然派とスピリチュアル好きに囲まれました。病院という社会も離れ、私を助けたり影響を与えるものはもうスピと自然派だけ。そこでは私はいるだけで喜ばれ、私も心を助けられ、そして収入をも得ることが出来た。私は確かにそこで、活き活きしていったと思います。
 
そうしてある日、私は間違いを犯しました。
私はとあるイベントでスピリチュアル相談をし、一日で15人ほどの相談を聞き、へとへとになりながら数万円の収入を手にしました。よかった、これで、私は家庭の収入を助けられるかもしれない!私は嬉々として帰宅してMにそれを報告しました。
翌晩。
Mは激怒し、一晩中壁をがんがん殴り続け蹴り続けました。
「出ていけ!」
とMは叫びました。
「出ていけ!出ていけ!」
「出ていけ!でなきゃ俺が死ぬ!」
何時間も叫び続け、壁を殴り続けるM。
包丁を持ち出したMをとめようとした私を振り払い、頬に痛みが走り、眼鏡が飛びました。
Mは私の腕を掴んで家から引きずり出し、家の外に閉め出しました。1時間ほどして鍵はあけられましたが、出ていけと叫び続け、壁を殴り続け、お前がいるから俺は病気が治らないんだと叫び続けました。

叫んで叫び疲れてMが眠った朝、私は最小限の荷物と子どもたちを車に押し込んで、Mの家を出たのです。
それはMが発症して4年ほど経った頃でした。

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あの、かいつまんで書いているので、ずっと元夫が恐ろしいひとみたいなことになってる気が、今読んでしたのだけれど…大人しい時は、あったんですよ。というか、昼間はほとんど寝ているというか。ただ、そういう時はあまり言葉が出なくて。うん。うん。くらいしか。そして声が出る時は感情のコントロールが壊れていたんじゃないかなあ
時々昔のように優しくしたい様子が、垣間見えることはありました。でも優しくしたいけれど出来なくてつらい、ってなるみたいだった

ちなみにこの話の頃は、病院に行っていて、薬も調整中です
今もその頃行っていた病院に行っているそうです。

さて次回は、このころ私が関係していた自然派やスピリチュアルがどんなものかの話をするか
それともうつ病の初期症状や対策、どうすればいいか、家族は、病院の選び方は、という話を患者家族の視点と精神保健福祉士としての視点を交えてするか、
どうしようかちょっと考えます。どっちがいいかなあ。

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