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他人の痛みのわかる人になりたかった
小学校の高学年になって、女子だけが視聴覚室でビデオ見る授業で、男子はドッヂボールでもやってなさい、的な。
その時期の保健体育の授業を受けてしばらくして、学校帰りに涙が止まらなくなったんだよね。
お産にまつわるエトセトラは、幼いなりに理解しつつあったけれど、改めて自分には妊娠・出産の機能がついてないということが悲しくて、泣きながら下校したのを覚えている。
と言っても子どもや赤ん坊が好きだったわけでもないので、なんであんなに泣きたくなったのか自分でも不思議だった。
それがやっと、最近になって言語化できたんですわ。
私は他人の痛みのわかる人になりたかったんだ。
そのために、この世のすべての痛みを体験したいっていう歪んだ願望を子どもの時点で持っていたんだな。
陣痛や出産の痛みが目当てだったわけだ。
お菓子の中でもコアラのマーチとかパックンチョとか、顔の描いてあるものが食べられなかった。
最近相方に教わったエマニュエル・レヴィナスの顔の概念を直感的に感じとり、お菓子に描かれたキャラクターの顔に他者性と加害・被害の関係性を感じとっていたようだ。
自分には知りえない他者の痛みというものがとんでもなく怖かったらしい。
でも陣痛や出産を体験できる体だったとしても、そしたらキョンタマを打つ痛みがわからないことに屈託しただろうから堂々巡りだ。
他人の気持ちなんて確かめようがない。だからこそ痛む人の痛みを取り除ける医者になりたがっていたんだった。
子どもの頃の夢は叶わなかったし今も他人の気持ちはわからないけど、それでも生きていけちゃうんだよね。