出産できない体に生まれて
初対面の昭和生まれのおじさん2人から寄ってたかって「まだまだ若い」と言われた。
それはともかく「(はやく)子ども作んなきゃやべえじゃん」とまで言われて、タコツボなりチェンバーなりの外に出ると危なっかしくてたまんねえな!
ポリコレ以前にデリカシー皆無なのではとヒヤヒヤする。
作るったって、会ったこともない我が子のために、大切な最愛のカミさんの命をベットしてまで出産してもらおうって気になれないよ。この世でたった1人のカミさんだぜ?
かてて加えて先行きの不安な時代に子どもを産み育てるのは、川上未映子『夏物語』の善百合子じゃないけど、加害者目線の反出生主義として肯定できないものがある。私は生まれてくる子どもを不幸にしてしまうんじゃないか。結局私は加害者になるんじゃないかと。
そもそも好きになった人を困らせたり痛い思いをさせたりしてまでやらなくちゃいけないことなんですか。繁殖ってのは。
愛した人の子どもを産みたくても、孕む機能を持つ機会さえなかった。
村田沙耶香『殺人出産』やシュワちゃんの映画みたいに身体男性も出産できる時代は来るのだろうか。
かように男性嫌悪なのに男性の身体に閉じこめられているからややこしい。
性別と言うよりマチズモが怖いから、いわゆる名誉男性化していたらシスヘテ女性でも恐怖を感じる。
さんざん男のくせにとか女々しいとかいじめられたから、良くも悪くも男らしい振る舞いが身についてしまったように思う。恐れることで自分の中にマチズモ的なものを内面化させてしまったのだろう。
加害者になりたくないって思っていても、人を傷つけずにはいられないなんて、完全にモンスターの理屈で悲しい。
「傷つきたくない嫌われたくない」ってマインドだけは西野カナなんだけどね。
でもモラハラ的な話法を使ってしまっているときやマンスプレイニング的な話法をしてしまって、あとから自己嫌悪することはあって。
私はどうあっても無害にはなり得ない。有害な性質を持ったまま、なんとか無害化して生きていくしかないんだな。
みんなもそうなのか?
私は建前がよくわからないタイプなので「また来てください」と言われたらホントに行っちゃうんだけど、本音では「来てほしくない」と思っていたとしても、確認のしようがないし私は話したいから会いに行ってしまう。
だから「ひょっとして私、ギャラリーストーカーになってないかな?」と思うことはあって。
自覚があるうちは自制が効いてるから大丈夫と言う人も、自分でそう思うならやめなさいと言う人もどちらもいる。
しくじったあとでSNSをブロックされたとして、そうなると謝罪の権利すら失うから本当につらい。
そこまで嫌わせて、追いつめてしまって本当に申し訳なく思う。
謝罪の権利を奪われた人間にとって宗教施設で行う懺悔と言うのはさぞや魅力的なものだろうなと思った。
だから建前とか外面とか気にせず「あなたのことが嫌いです」って言えたら良いのにと思うけど、それも逆恨みのリスクがあるんだろうな。
私は嫌いな人に直接「お前のこと嫌いだから」って言ってトラブル起こした経験が何度かあるから、それが正解とは言えないし。
人を傷つけたいわけじゃないのにどうして人を傷つけることを欲望してしまうのだろう。
「ホテル行こうか?」って言ったら、「おうち帰ってゲームやるから無理ー」と言われたことがあって。
そのやりとりが冗談として成立することがとても嬉しかった。自分が男性として扱われていないことに安心した。名誉女性とでも形容しようか。
でも性欲って中動態的だから、「ホテルに行く」って言われていたらどうしたか。もしくはセクハラだと明確に糾弾されていたら。そもそも冗談にしてくれたのは相手の温情であって本当はイヤだったかもしれない。イヤだと思っていなくてもそういう受け答えをすることが習慣化される社会設計は理想的と言えるのかとか。本音を疑いだせばきりがない。
好意というもの自体、「好きだったんじゃないか?」「下心があったんじゃないか?」って言われてしまえばそうだったような気がしてきてしまうし。
嫌われることは怖いし悲しいからイヤだけど、警戒しないで信用してくれたら嬉しいけれど、私が無害だった前例となることで、みすみす有害な狼に気づけなくなることは避けなければならない。
虐待にもあからさまなアビューズと、不適切な対応を指すマルトリートメントがある。被害者を生まないことは加害者を再生産しないことにもつながる。
もしかしたら予防的に警戒され、恐れられることが私の役割なのかもしれないな。