心置きなく暴力を楽しみたかった(暴力が嫌いだから)
『引きこもりは被災地へ行った』は事実を元にしたフィクションですが。
私は実際に引きこもりだった頃、ボランティアとして被災地に行ったんですよ。
13年前の震災直後ってテレビCMはぽぽぽぽーんだし、報道を見れば壮絶だし、被災してなくても元気がなくなるような環境でした。
ゲームとか録画したドラマとかで気をまぎらわそうにもね。
バッサバッサとチャンバラで叩っ斬るのを見るのは痛快なんだが、安心して平和に眠れる状況にない人がいるってわかってて、なんならL字で常に何人が行方不明とか表示される状況じゃフィクションも心置きなくは楽しめなくて。
だから奉仕の精神とか利他の心というより、私が安心してフィクションや物語を楽しむために災害支援に行ったし、今も平和を脅かされずに安心して眠れない異邦の人や、子どもたちや、保護猫たちに心を砕くのは、私が安心してチャンバラとかライダーキックとかアトミックバズーカとか空想の暴力を楽しみたいってワガママな気持ちがあるからだ。
実際に民族浄化が今この瞬間も続いているのにフィクションを楽しんでいていいんだろうかと思う。ゲームの中で敵を殺したり味方を自爆させたりしていいんだろうか。
『FGO』でアーラシュと陳宮と信勝と草十郎だけ最終再臨したままレベルマックスにしてない辺り、忸怩たる思いがゲームを満喫できなくさせていることの証拠だろう。や、子どもの頃はマルマインにだいばくはつさせてたけどさ。
ラファへの侵攻を許す事態になって、結局我々はナラティブに加担させられる形で虐殺を見過ごすことになってしまった。物語を書く側の端くれとして非常に寝覚めが悪い。どうして物語は民族浄化や虐殺を止められなかったんだろう。こんな事態を招いてしまうなら、「どうして歴史の上に言葉は生まれたのか」。
ついでに言うならフェミニズムもね。エロコンテンツ好きだからこそ、製造過程で誰かを搾取するような、被害者が生まれるようなものは悲しい。フェアトレードポルノであってほしい。
「可哀想だと抜けない」なんて言葉もあったが、「メシウマ」とか「ざまあ」とかシャーデンフロイデにも限度があるよ。
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