死亡志望の女
(女はふらりとやってきた。窓口に向かい話す。穏やかな春の日で、外では鶯などが鳴いていた。そんな日だった。役場は静まり返っていた。)
私は今できうる限りのおめかしをした。服には限りがあるもので、寿命も存在してしまう。綻びはなぜだか目障りで、建物などは経年劣化も美しさとなるのに服はそうはいかない
桜はもう満開だった。晴れていてよかったわ
窓口の男は丸眼鏡をかけている。これぞ公務員という風体。まあ悪くないわね
すみません
はい、どうなさいましたか?各種手続きはこちらでお伺いします
ええ、死亡届を出したくて
ああ、ご愁傷様でございます。この度は…
いいえ、まだ死んではいないのです
ああ、これはこれは早とちりを。自己死亡届の方ですね?
そうなんです
それではこちらへどうぞ
通されたのは応接室のような場所。ような、というのは入っていった部屋が「死亡届記入室」と書いてあったから
どんな部屋かと思ったらなんてことはないわ。特に面白みもないただの部屋。向かい合わせたソファーとガラスの天板の低い机が一脚だけ
それではおかけください。あ、お飲み物お持ちしますよ。この中からお選びください
あら、メニューは少ないのね
役所ですから。どれにしましょう
ホットコーヒーをいただくわ。ブラックでいいわよ
かしこまりました。それではこちらをお読みになってお待ちください
堅物な男ね。公務員とはこういう人が向いているお仕事なのかしらね
男の指し示した文書は死亡届を出すことの意義と制度が設けられた理由など
何回も読んだことがあるものだった
お待たせしました。こちらコーヒーです
ありがとう
さて、そしてこちらが自己死亡届です
こちらに記入すればいいのね
そうです。役所も楽になりました。仕事といえばこれくらいなのです
そうでしょうね
悩みとは案外種類は少ないものなのでしょうね。人類は皆同じような悩みを抱えているものだと、この仕事をして理解しました
そうね。私も届けを出すと決めてから、しばらく待って春の美しい日に出したかったの
結構な趣味ですな。私も出すなら今日のような日がいいものです。
あれ?同い年じゃないかあ
あら、そうなの?
もしかしたら知り合いかもしれないね
ええ、そうね。はい、記入は終わったわ
ありがとう。じゃあこれを
急に敬語をやめた男はカプセルを手渡してきた
痛みも感じないで、苦しさも感じない。そして即効性も非常に高い毒薬
人類が手にした新たな権利。「自殺権」の象徴
それで、何か準備はあるの?
この棺に入ってもらう。服はこちらが用意するものに着替えてくれ
それだけね。結構大きいのね
まあ、大体の人が寝っ転がれる大きさにしているから
そう、それもそうね
棺は白く半透明の蓋が展開して私を待っている。青い基底部は柔らかな素材で海の上のようだわ。流線形の形は雫のようにも、リニアモーターカーのようにも見える
ここで生命活動を停止した体は圧縮・脱水されて直径5センチほどの球体になる
棺と同じようなカラーリングの球体は、共同墓地に名前と享年を記載されて並べられる
ここで何人もの人が亡くなったのね
うん、もちろん消毒済みだよ
そんなこと心配してないわよ
すぐ死ぬかい?いつでもいいんだよ。その届けを持ってきてくれれば
ううん、今日逝くわ
そう。残念だなあ。久々に話ができて嬉しかったよ。ところで形見はどうする?
球体に圧縮された死体から、遺骨の一部分を遺族に残すことができる
一部と言っても、大腿骨からイヤフォンの先についているシリコンほどの骨を削り出すだけ
渡す人もいないわ。私の親も子どもも夫も死んでいるから
そうかい。僕も同じ境遇さ
そうなのね。でも、自殺権って世紀の発明だわ
ああ、僕も生きるのが本当に楽になった
自殺は悪。そんな分かりきったこと
でも、その言葉で何が救われる?
自分を救えるのは自分だけ
形見はいいわ
そう
あなたは死なないの?
僕はまだのんびりしたいんだよ
そう
夏に逝くのも良いかもしれないしね
それも良いわね。蝉時雨を聴きながら、なんて最高じゃない
まあね。でもおかしいものだよな
何が?
自殺権が各国家で承認されてからというもの、人類は減る一方なんてさ
でも当然といえば当然じゃない。生きる意味ってピンとこないけど、死ぬ理由ならちゃんとあるもの
まわりまわって、世の中が幸せになる使い方をします。