朧月
うっすらと覚えてる記憶。
嫌なほど覚えてる記憶。
大好きな記憶。
そんな記憶がいっぱいになって抱えきれない
手放したい記憶、次に進むための記録をこれからここに記す。
(人によって嫌な気持ちになる人もいると思う)
産まれて私が1番覚えている古い記憶は、
私が3歳ぐらいで、ぐるぐるどかーんを踊っているのを父がガラケーで動画を撮って兄がそれを見ながら漫画を読んでいる光景。13歳上の兄は高校生で自転車通学をしていて、放課後バイトしてるマックに遊びに行き、兄はバニラシェイクにポテトをつけて食べるのが美味しいと教えてくれた。
4歳で両親が離婚し、母の実家の隣のアパートで母と兄と私で暮らしていた。5歳で兄は父と暮らしたいと言い埼玉に住んでる父の元に旅立った。
6歳。幼稚園生、母が再婚し苗字が変わり同じ市内の団地に住むことになる。再婚相手には中学2年生のあきらくんという男の子がいた。彼は私のことが気に入らなかったようで意地悪をよくしてきた。書いていた絵をバカにされ落書きされたりおんぶされたかと思いきや思い切り落とされたり、その記憶の中であきらくんが熱を出した日があった。母は冷えピタを常に交換しアクエリアスを飲ませたりおかゆを作っていた。母も再婚相手とあきらくんに両方に好かれたかったのだろう。再婚し半年後の夜、母にこれからおばあちゃんの家に行くから、必要なもの持ってと言われ荷物をつめたその中で当時好きだった、トーマスがパッケージでポッキーのようなチョコレート菓子を忘れたのを思い出し泣いた。その後母親は離婚し苗字が戻った。
母は実家の隣のアパート、私は祖母と叔父と住んでいた。中高一貫の寮生のご飯を作っていた祖母はその仕事を定年で辞め、私の幼稚園のお弁当、送り迎え、洗濯、夜ご飯全てしてくれた。母は完全私のことを祖母に任せ、パチンコ、男性と色々なことをして家にいなかった。罪滅ぼしかのようにパチンコの景品のお菓子を渡してくる。
私の好きな記憶、
祖母の料理している後ろ姿が好きだった。
私がさつまいもが好きだから天ぷらを揚げて
他の日には少しのご褒美でサイコロステーキを焼いたり、春は近くでふきのとうを取ったり秋は筍で炊き込みご飯を作ってくれたりおやつは幼稚園のあとにパン屋さんや和菓子屋、駄菓子屋に行ったり、家でチョコモナカジャンボを2人ではんぶんこした。遠足も一緒に来てくれて、後日の写真販売で私だと思って全然違う子の写真を買っていた。
そんな中、小学校2年生で祖母が認知症になる。薬はもう間に合わないぐらい進行が早かったようで、私は色々なことに疑われ祖母は徘徊し料理上手だったのにお米も炊けなくなっていて、大好きな祖母が私に沢山の幸せを教えてくれていたのにどんどん変わっていくのを幼いながら受け止められずにいて、祖母を叱ったそれが私の人生で強く後悔してること。
それでも母はパチンコに行く。
祖母は施設に入り、母は隣のアパートで私は叔父と暮らす。ご飯は冷蔵庫に入ってるもので済ませてと母は言うが、毎日チキチキボーンしか入っていない。あとは冷凍パスタ、ひとりテレビを見ながらご飯とチキチキボーンを食べる。未だにスーパーでチキチキボーンをみるとトラウマのような感じで避けてしまう。あとは大きな鍋2つに、片方はカレーもう片方はシチューを作りその後1週間何もつくらないか、魚を焼いたり冷凍のものとサラダ的なのを出した日はその後3日間ぐらい何も作らない。あとはテーブルの上に500円が置かれこれで3日間過ごせという。
土日になると必ず私を叱りに来る。毎週怒られないよう気をつけていてもストレス発散するために隣近所に聞こえる大声で怒鳴られ泣くと泣いたら許されると思うなと言われる。アパートのドアが開く音を覚えていて開く度に怯えていた。
中学入学後、ソフトボール部に入部する。母の身長を超え反抗も少しできるようになった。2ヶ月に1度ほど父の住んでいる場所に遊びに行ったり父の実家の岩手には夏と冬行っていてそこで話していた。父は再婚はしていなかったが韓国人の方とお付き合いしていた。ある時、ショッピングモールで父が御手洗に行ったきり中々戻って来なくて、付き合っていた方がお父さんに電話しようといいその画面が少し見えた。父の名前の後に指輪の絵文字があって、あぁこの方と父は結婚するのかと思春期真っ只中で嫌悪に近い感情を抱いたが結果今も父は再婚はしていない。
小中学生とどんな子だったか。
小3ぐらいの時から荒れ、学校も2時間目から行ったりなによりクラスのコミュニティにいることが苦痛だった。
21歳の記事や他の記事でも下記のことは少し書いているが、手放したいも好きな記憶もあって重複するだろうけど記す。
ずっと居場所がわからず
自分はいてもいなくても空気のような存在だったと思う。
中学3年生。進路選択、私は中3の2学期から不登校・別室登校をしていた。別室登校の時、給食は同じクラスで元同じ部活の子が持ってきてくれ、教室に入りやすいように席は、廊下側の1番後ろ。隣の男子は3年間同じクラスで、不登校になる前は席が数回隣になったこともあり話をしたこともあるような子だった。
そんな風に教室復帰をガチガチに固められ、進路を早く決めてと急かされ高校は通信制に入ると決め担任に伝えたところ却下され副担任からは今からでもお前が入れる都立・県立・私立の高校のパンフレットを用意したと15冊くらい持たされ帰り道泣いた。
人に否定されるのはこんなにきついんだ。
進学と同時にもう、母親とは限界だ。高校生になったら父の方に行くと決めていた。父の方に行きたいと小学生の頃から度々言うと、お父さんは仕事で帰りも遅いしご飯も作ってくれないよそれでもいいの、絶対お母さんといた方がいいと言われていたがそんなことはなかった。
進学は、通信制が無理だと分かり行けそうな県立高校をしぼって家から近い所へ入学した。4、5歳ぶりに父と兄と暮らす、血は繋がっているのに距離感が分からなかった。実の親なのに。父は遅くても19時には帰ってきて、洗濯も料理もする。私は母の言葉に縛られていたんだなと、でも今仲良く出来ているのもその距離感があるからなのかもしれない。
入学した県立高校は商業科のクラスでほぼほぼ周りの中学から来た子ばかり、コミュニティが既に出来上がっていた。入学して4月最上階の5階に図書室があった、そこから毎日下を見下ろしていつになったら死ねるのか、ここから飛び降りたらどうなるんだろうそんな気持ちで毎日通学していた。
6月後半、ベッドから起き上がれなくなり
そこからずっと外には1歩も出ず自室に引きこもる。同級生、周りの目が気になり近所のコンビニに行くのもやっとだった。
自分の意思ではないが、その時の担任と親が休学の手続きをしていた。高校はちゃんと卒業しろ父親に言われ次の年の4月、私は中3の時に行きたいと言った通信制の高校に転入した。
「来てくれて、ありがとう」
高校に入学して、最初に先生に褒められた言葉。
毎週金曜日、学習フォローコースという名の自習室があった。勉強後先生と雑談したりトランプをして遊んでいた。私は中学時代ソフトボール部だったこともあり、プロ野球を観ていてその話をしたら先生が巨人ファンで、また別の先生は私と野球の話をしたいからと言ってプロスピを始めてどの選手がいいか聞いてきたりした。学習フォローコースに参加している他の子とも勉強教えあったりお菓子を分け合う仲になったり
自分の中の居場所を少し見つけられた気がした。
この時間は私が高校2年生になると、勉強後進路を考えようの会みたいな時間になった。
先生が手作りで人生ゲームや職業カルタを作ったり、3年後の自分は何をしているか画用紙に自由に絵を描いてください。私は高校入学から3年生の前半まで通信制高校の先生になりたかった。
私のように何かを否定され閉じこもったのなら、否定されたものを肯定したい。10代で向き合ってくれる大人の貴重さを知っているから、たくさんの子と向き合って、共に学んで成長したい。そんな夢があった。
先生にはならなかったけど、教育に携わる仕事をしていて、進路を考えるなんて今の私の職業そのもの。当時の私はこんな職業してること知らないけど
次に進むために手放したいものはもう手放せた。
過去の私よりこれから先の私は今よりも強く在れるよ。
長かったな、、、