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未可與権
今回は、「論語」子罕篇31章目から。
子曰く、與(とも)に共に学ぶべし。未だ共に道に適(ゆ)くべからず。與に道に適くべし。未だ與に立つべからず。與に立つべし。未だ與に権(はか)るべからず。
先生は言われた。「ともに学問することはできても、同じ道を行くことができるとは限らない。同じ道を行くことができても、ともに毅然として立つことができるとは限らない。ともに毅然として立つことができても、ともに臨機応変の措置ができるとは限らない」。
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「適」は「往」と同じ。
「権る」は、時と場所に応じ、適宜、措置すること。
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『孟子』巻第七で、淳于髠(じゅんうこん)という学者が孟子に、上のマンガの2コマ目の子路と同じ質問をする。
孟子は、「兄嫁が溺れているのに、手も出さず見殺しにするのは、豺(やまいぬ)か狼です。男女が物をやりとりするのに直接手渡ししないのは、交際上の礼儀であり、常道ですが、兄嫁が溺れているのを手をとって助けてあげるというのは、権道(けんどう)すなわち臨機応変の処置(はからい)というものです」(後略)。
つまり、孔子は、一緒に道を歩むことが出来ても、一緒に臨機応変の処置が出来るようになるという訳ではない…と言いたかったのだろう。
この発言を、孔子がいつ、誰をお思い描いて言ったのかは分からないけど、なんか行き詰まった感の漂う言葉である。
🐻